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[歴史のすみっこ話]昭和元年の元号報道[1250文字]

昭和の始まりの年(=昭和元年と終わりの年(昭和64年)は、1週間しかなかったことは、知られているのかなぁ🤔。

■1926年12月25日 午前1時25分、大正天皇崩御。
■1926年12月25日 午前11時、元号を昭和と改元。即日公布。
 「大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年トナス

■1989年1月7日 午前6時33分、昭和天皇崩御。
■1989年1月7日 新元号を平成と閣議決定・公布。施行は翌日8日。
          (候補は「平成」「修文」「正化」)
■1989年1月8日 平成元年の始まり

昭和の始まりと終わりの年がともに1週間しかなかったというのは、不思議ですね🤔。

さて、昭和の元号報道について。
1926年12月25日 午前4時ごろ東京日日新聞が出した号外の中で『元号は「光文」』と掲載されたいわゆる「光文」誤報事件が有名です。

もともと宮内省(当時)は大正天皇の病状が悪化する前に、秘密裏に宮内省図書寮の編修官である吉田増蔵(よしだ ますぞう)氏に元号草案の作成を命じており、吉田増蔵が選んだ案の中には「昭和」はあっても、「光文」は、
入っていませんでした。

では、なぜ『元号は「光文」』というスクープ(結果は誤報ですが)が出たのでしょうか。

政治評論家、戸川猪佐武氏の『素顔の昭和』によると、『毎日新聞七十年史』には以下のように記載されているそうです。

大正天皇崩御よりだいぶ前に、元号は『光文になるらしい』という極秘情報が東日政治部長 西村公明(にしむら きみあき)氏に、政治部記者からもたらされた。
[略]
その後、枢密顧問官 清浦圭吾(きようら けいご)に接近している名村寅雄(なむらとらお)その他二、三名から、やはり『光文になるらしい』との極秘情報がもたらされた。

つまり、かねてから独自ルートで『元号は光文になるらしい』という情報を東京日日新聞は掴んでいたようです。

京日日新聞が出した号外から7時間ほどたった後同日午前11時頃に各社から「新元号は昭和」と号外が撒かれることになります。

ここまでは有名なお話だと思うのですが、実はもうひとつ隠れたスクープがあります。

作家 猪瀬直樹氏の『天皇の影法師』には、『一社だけ、号外と夕刊でなく朝刊に「昭和」が間に合った新聞社があった。時事新報である』とあります。
元号をいち早く報道した大スクープがあったことになります。

もっとも、そのスクープ記事を掲載した版の朝刊は見つかっていないそうですが。

残念ながら「昭和」をスクープした版の時事新報朝刊は、いまはどこにも存在しない。
国会図書館等に収蔵されている十二月二十五日付朝刊には「昭和」の記事は見当たらなかった。
時事新報主筆と担当記者の証言に記憶違いはあるとも思えない。
都内の一部に象嵌(ぞうがん)による処理によって印刷されたものが出回ったのだろうか。しかしスクープであることに変わりはない。

「天皇の影法師」 著:猪瀬直樹より

昭和という時代は、その始まりからミステリアスな謎に彩られていたのですね🤔。


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