【三寸の舌の有らん限り】[08]-児玉源太郎01-(979文字)

 明治36年10月1日、参謀本部次長の田村怡与造たむらいよぞうが死去した。
 対露作戦計画の立案中心人物であったことから、その衝撃の度合いは大きい。
 無二の良将を喪った、とそう陸軍大臣の寺内正毅は山縣有朋に宛てた書簡の中で吐露している。
 
 後任についてはすぐに決まらなかった。
 参謀総長の大山巌は同郷の鹿児島出身で姻戚関係のある伊地知幸介を、という意向があったが、陸軍大臣の寺内正毅がこれに反対した。
 参謀本部総務部部長の井口省吾は第二部長の福島安正を推したが、参謀総長の大山巌が賛成をしない。
 桂太郎内閣の内務大臣でもあった児玉源太郎を推したのは山縣有朋だった。
 
 児玉源太郎を内閣から出したくない総理大臣の桂太郎であったが、山縣有朋は、10月6日に桂太郎から児玉源太郎の参謀本部次長就任の同意を取り付けた。
 10月12日、明治天皇がこれを了承し、児玉源太郎は参謀本部次長に就いたのだった。
 
 陸軍大臣も経験している児玉源太郎が、格下の参謀本部次長に就任したことは周囲から称賛された。
 
 明治の初めの頃からの付き合いで親友の乃木希典からは、漢詩が贈られている。

 10月16日。児玉源太郎は参謀本部各部長を招いた晩餐の席で、日露戦争不可避論を述べ、早期開戦論を唱えた。
 
 児玉源太郎の早期開戦論は現実的判断に基づくものであった。
 シベリア鉄道が完成していない今ならば、極東に展開するロシア軍の兵力と日本の兵力を比べれば、まだ勝利は可能であると見ていた。
 
 むしろ児玉源太郎が懸念する問題は、ロシアとの戦争を戦い抜くための戦費を賄える財力が日本にあるか、だった。

 その戦費調達の大任を請け負ったのが、当時日銀副総裁の高橋是清であった。

(続く)


■引用・参考資料■
●「金子堅太郎: 槍を立てて登城する人物になる」 著:松村 正義
●「日露戦争と金子堅太郎 広報外交の研究」    著:松村 正義
●「日露戦争・日米外交秘録」           著:金子 堅太郎
●「日露戦争 起源と開戦 下」          著:和田 春樹
●「世界史の中の日露戦争」            著:山田 朗
●「新史料による日露戦争陸戦史 覆される通説」  著:長南 政義
●「児玉源太郎」                 著:長南 政義
●「小村寿太郎とその時代」            著:岡崎 久彦
●「ベルツの日記」                編:トク・ベルツ

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