西暦で見た幕末・維新(3)~失われた時間~

【はじめに】
歴史に対する見解は諸説あり、異論・反論もあるかと思います。
これはボクが読んだ書籍等から、そうだったのかもと思ったものです。
ですので、寛大な心で読んでいただければ嬉しいです。
また年代・人名・理解等の誤り等のご指摘や、資料のご紹介をいただければ幸いです。
では、始めさせていただきます。


1852年に長崎奉行から老中首座、阿部正弘に送られた「別段風説書」に書かれている『北米合衆国政府が日本との貿易関係を結ぶために同国へ派遣するつもりの遠征隊』について、阿部正弘はどのような対応を行ったのでしょうか。

以下、『江戸の海外情報ネットワーク』著:岩下哲典 より引用します。

この情報は、長崎のオランダ商館長からもたらされ、老中から海防掛かいぼうがかり(勘定奉行や目付などで構成する海岸防備や異国船対策を論じる合議機関)に諮問された。激論の末、海防係が提出した結論は、情報の真偽を判断しかねるので、長崎奉行に諮問したらどうかという、海防掛かいぼうがかりの限界を露呈したものだった。そして、その長崎奉行の出した結論は「オランダ商館長は貪欲な者で、貿易量を増してもらいたいがため、このような虚偽情報を提供してますますオランダに依存するようにさせたいのだろう。したがってこの情報は信用できない」。かくして、長崎奉行もオランダ商館長を疑うあまり真実を見誤った。幕府として何の対策もたてなかったのは、長崎奉行のこうした答申を真に受けた結果なのである。

「江戸の海外情報ネットワーク」著:岩下哲典

ところで、開国に重要な役割を果たすことになる、老中首座・阿部正弘ですが、老中という肩書からかなりの年配の人のように思う方もいるかもしれませんが、老中首座(老中のリーダー格)に就いた1845年時点で、数え年27歳です。今でいうと、27歳で日本国の首相になったようなものです。
 
ちなみに、大河ドラマ「篤姫」では、阿部正弘役を草刈正雄さんが演じておられました。実際は、草刈正雄さんよりずっと若かったんですね。

結果としてみれば、長崎奉行の判断は誤りであったことになります。
ですが、自ら判断を下せなかった海防掛《かいぼうがかり》や江戸幕府の老中に責任がないというわけではありません。

海防掛《かいぼうがかり》が常設となった1845年以降、江戸湾近辺だけに限っても、異国の船が頻繁に姿を見せる時代になっていました。「浦賀奉行所」著:西川武臣 の記述を参照し、以下のように異国船が来た時期とその顛末を書いてみました。


●1818年(文政元年)
英国籍商船ブラザーズ号が交易目的で来航。警備担当の会津藩が150艘の小船で包囲。幕府から派遣された通詞(通訳)から英国とは交易できないと伝えられ撤去。

●1822年(文政5年)
英国籍捕鯨船サラセン号。食料・水の補給を目的に来航。小田原藩・川越藩が20艘の小舟で包囲。食料・水の補給を受けたのち、撤去。

●1837年(天保8年)
米国籍商船モリソン号。日本人漂流者の送還と交易を目的に来航。浦賀奉行所による大筒での攻撃により撤去。

● 1845年(弘化2年)
米国籍捕鯨船マンハッタン号。捕鯨中に日本人漂流者を救助。送還と薪・水の補給のため来航。老中首座・阿部正弘の判断により、今回限り浦賀での漂流民の受け取り実施、薪・水・食料などの提供を行ったのち、撤去。

●1846年(弘化3年)
米国籍艦隊コロンバス号・ヴィンセンズ号。東インド艦隊司令長官ビッドルに率いられ、アメリカ政府の命令により日本との通商目的で来航。
日本は外国との通信・通商をしないことを伝えられ撤去。

1849年(嘉永2年)
英国籍軍艦マリーナ号。江戸湾、下田湾の測量を目的に来航。通詞から撤去を求められるが、伊豆大島・下田に来航し、乗組員が上陸を行う。浦賀奉行与力香山又蔵・伊豆韮山代官江川秀竜がマリーナ号に乗り込み、撤去を要請。それを受け入れて撤去。


(「浦賀奉行所」著:西川武臣 を参照し、作成)

江戸湾の近辺に姿を見せる異国船に対して、なんとか退去させて、しのいでいますが、もう鎖国を続けるのは無理な状況だと思わざるをえません。
ペリーが来なくても(どのような形であるかはわかりませんが)、遅かれ早かれ日本は開国しなければならないような状況に追い詰められたことでしょう。

さて、話は戻り1852年。長崎奉行の回答(個人的見解?)により、江戸幕府として表立った対応策をとることはなくなりました。
阿部正弘を除く老中にとっては、「特段何もせず、万一異国船が来航したとしても今まで通り、追い返せばいい」という現状維持の好ましい結論になった、と言えるのかもしれません。

かくして、徳川幕府はペリー艦隊来航の対策を練る時を逸したのでした。
(実のところ、この時点で海防強化のための費用捻出や、大型船を作る技術力などの問題で、どれだけ江戸湾の防御を強化できたかは疑問ですが)

ですが、阿部正弘は、決して何もしなかったというわけではありませんでした。『開国史話』著:加藤祐三 には、一部の大名たちに危機を伝えようとする阿部正弘の行動が以下のように書かれています。

阿部は、この秘密文書を江戸城の溜間席たまりまの諸侯(譜代大名の有力者)に回達した。1852年7月頃とされる。
ついで同年暮れ(1852年12月12日)、外様の西南雄藩の助力が必要と考えた阿部は、薩摩藩の島津斉彬に口頭で伝え、翌1月7日には書簡を送った。
薩摩が琉球を支配しており、外国情報も多く入手しているはず、琉球の動静を知りたいと述べ、「唐国之様」(一般に唐国とは外国の意味)については同封(当子年阿蘭陀別段風説書)の通りと記した。
ペリー艦隊来航の予告情報は、こうして有力大名に伝わり、やがて阿部正弘の政策形成に大きな役割を果たす。

「開国史話」著:加藤祐三

江戸幕府の首脳(老中)が頼みにならないと判断した阿部正弘の打った一手といえるでしょう。
しかし、譜代大名はともかく、関ケ原で徳川家の敵に回った外様大名にも、国家の秘密文書となる「別段風説書」の情報、アメリカが艦隊を率いて日本に開国を迫りにやってくるかもしれない、という情報を知らせるということは、沿岸の警備に注意してほしいという要請であったとしても、それまでの徳川幕府ではなかったことでしょう。徳川幕府は、主要閣僚である老中だけでは重要問題の対応ができなくなっているということを一部の大名は意識することになる事態を招いたとも言えなくはないでしょうか。

1853年7月5日。ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が、浦賀に姿を現わす3日前のことです。阿部正弘からペリー艦隊来航の情報を聞いていた島津斉彬は参勤交代で、江戸から国元の薩摩へと向かっている途中の岡山で、思いがけず、ペリー艦隊の知らせを聞くこととなります。
約1か月前の5月末に、ペリー率いる艦隊が、薩摩藩が支配下におく琉球王国に来航したことをー。

「ペリー来航 - 日本・琉球をゆるがした412日間」著:西川武臣 から、その部分を引用します。

薩摩藩主の島津斉彬は、江戸から鹿児島へ戻る途中の7月5日に、江戸に向かう藩の使者から備前国(現・岡山県)でペリー艦隊の琉球来航について報告を受けている。この報告が首里城訪問を知らせたものであり、情報は約1カ月で中国地方に到着したことになる。

ペリー来航 - 日本・琉球をゆるがした412日間」著:西川武臣

ペリーは江戸湾に来航する前に、琉球王国に来航していたのでした。


引用・参考資料
■「ペリー来航 - 日本・琉球をゆるがした412日間」著:西川武臣 出版社:中央公論新社

■「開国史話」著:加藤祐三 出版社:神奈川新聞社

■「江戸の海外情報ネットワーク」著:岩下哲典 出版社:吉川光文館


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