[学者・軍人・政治家]【06】 ラザフォード[01][2447文字]

核兵器のある世界はどういう経緯で出来たのか、歴史の流れをたどっていくシリーズの6回目です。

前回は、ノーベル物理学賞に推薦されるものの、そこにはマリー・キュリーの名前がなかったというところまででした。
今回はマリー・キュリーとピエールがノーベル物理学賞を受賞し、その後、ラザフォードらによって様々な発見がされていきます。
尚、物理学をはじめとする様々な専門的または難解な話は、ボクに基礎知識すら無いため😵‍💫、ご質問されてもお答えできませんのでご了承ください。


 マリー・キュリーにとって幸いなことに、ノーベル委員会メンバーの中にスェーデン人数学者ヨスタ・ミッターク=レフラという人物がいたことでした。
 彼はフランスの数学者ボアンカレの友人で、フランスの事情に詳しかったのです。フランス科学アカデミーからのノーベル物理学賞推薦者の中に、マリー・キュリーの名前が無いことが理解できませんでした。
 彼は、ノーベル委員会として秘密を守秘する義務がありましたが、それを破って、ピエール・キュリーに、ノーベル物理学賞に選ばれる可能性があること、そして候補者のリストにマリー・キュリーが載っていないことを、手紙で告げます。
 ピエール・キュリーは驚き、返事の手紙を書きました。

 もし私のことを真剣に考慮してくださっているのが本当なら、放射性物質に関する私たちの研究の結果について、私はキュリー夫人と共同で責任を負っていると思ってくださることを切に望みます。
 というのも、新しい物質の発見に決定的な役割を果たしたのは、彼女の最初の研究なのです。今回の発見は彼女によるところがとても大きいのです(彼女はラジウムの質量の測定もしました)

「キュリー夫人と娘たち」 クロディーヌ・モンテイユ:著

 これを受け、ヨスタ・ミッターク=レフラはノーベル委員会の他のメンバーたちにマリー・キュリーの功績を認めさせたのでした。

 なお、ノーベル物理学賞の受賞理由は、ベクレル(当時51歳)が『自然放射能の発見』、マリー・キュリー(当時36歳)とピエール(当時44歳)が『アンリ・ベクレルが発見した放射現象の研究』でした。

 ベクレルピエール、マリー3名のノーベル物理学賞受賞が発表されると、マリー・キュリーピエールは一躍時の人となりました。
 ふたりの実験室に何百通もの手紙が届けられ、ジャーナリスト、カメラマンたちが集団でやって来て、その対応に二人の実験は滞ります。

 「私たちは、手紙や、押し寄せるカメラマンや記者たちの波に溺れそうです。平穏にすごすためなら、地下に潜っていたいほどです・・・」

「キュリー夫人と娘たち」 クロディーヌ・モンテイユ:著

 ただし、1903年のノーベル賞授賞式にマリー・キュリーピエールは、体調不良で参加できず、ベクレルのみが出席し、12月11日に受賞講演を行いました。(マリー・キュリーピエールの体調不良は「放射線病」を患っていたとする説があります)

 1905年6月6日、マリー・キュリーピエールはスェーデンを訪れ、ノーベル賞の賞金を受け取るり、そしてピエールが代表して講演を行い、その中でラジウムが悪意ある者に手に落ちることの危険性について、以下の警告を発します。

 犯罪者の手に渡れば、ラジウムは非常に危険なものになりうると想像できるのです。そして、人類にとって、自然の秘密を知ることがよいことなのだろうか、そして人類はそれを利用するほど成熟しているのだろうか、あるいはこの知識が人類にとって有害になることはないのだろうかと、ここで我々は自問しうるのです。
 ノーベルの発見こそ、その際立った例であります。
 強力な爆薬は、人類が目を見張るような仕事をすることを可能にしました。と同時に、人々を戦争へと駆り立てる大犯罪者の手に渡れば、破壊の道具になるのです。
 私はノーベルと同様、人類はそこから悪よりも善を引き出すと信じる者のひとりです。

「キュリー夫人と娘たち」 クロディーヌ・モンテイユ:著

 翌年の1906年4月19日にピエールは不慮の事故で亡くなります。

この1906年にノーベル物理学賞を受賞したのが、電子の発見者であるイギリスのジョゼフ・ジョン・トムソンです。(電子の発見者がトムソンかについては異論あり)
 
 トムソン1897年頃に『或る条件下では、どんな種類の金属であっても、その表面からマイナスの電気を帯びたおびただしい数の微粒子が飛び出て来る』ことを発見しました。
 
 トムソンはこのマイナスの電気を帯びた微粒子は、全ての物質に共通した物質の構成要素であろうと結論づけ、マイナスの電気を帯びた微粒子を電子と名付けました。

 トムソンから学んだニュージーランド出身のアーネスト・ラザフォードは、トムソンの推薦で1898年にカナダのモントリオールにあるマルギ大学に移ります。そして放射線の正体について研究を始めます。

 1899年、ラザフォードは放射線には2種類あること発見し、アルファ線、ベータ線と名付けます。
 またイギリス人の化学者フレデリック・ソディと、ラジウム・トリウム等の放射能をもつ物質について共同研究を行い、1902年に元素が放射線を放出すると別の元素に代わる『放射性元素変換説』を提唱しました。

 ラザフォードの発見は、まだまだ続きます。


参考・引用資料:
●「シーベルトとベクレル」 山崎岐男著
●「キュリー夫人伝」 エーヴ・キュリー著
●「キュリー夫人と娘たち」 クロディーヌ・モンテイユ:著
●「プルトニウム」 ジェレミー・バーンシュタイン著
12月1日 「ウラン」の発見者マルティン・クラプロート誕生(1743年)(ブルーバックス編集部) | ブルーバックス | 講談社 (gendai.media)
●エックス線物語 馬場祐治 著
●「核エネルギーの時代を拓いた10人の科学者たち」 馬場祐治 著
●「原子爆弾」 内山克哉 著
放射線医学の歴史 (radiology-history.online)


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