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小説・Bakumatsu negotiators=和親条約編= (18) ~ペリーの焦り~(1694文字)

※ご注意※
これは史実をベースにした小説であり、引用を除く大部分はフィクションです。あらかじめご注意ください。


第1回目の日本遠征はペリーにとって満足のいくものでした。

国書は長崎で受け取るという日本側の主張を抑え込み、フィルモア大統領の国書を受領させ、沖縄とは交易を受託させることに成功し、これは過去のいかなる西洋列強国家ですらなしとげなかったことであると、鼻高々に海軍長官に、自らの成果を誇る手紙を送っています。

1853年8月7日。香港に戻ったペリーたちは、混乱を深める中国の状況を知らされます。
太平天国の反乱軍が南京を占領し、北京へと向かいつつありました。
内陸の各地で沿岸地域で反乱がおきているとの報告が入ってきました。
広東在住のアメリカ人商人たちはペリーに『広東周辺にもならずものたちが群れをなして、われわれ外国人を襲い財を略奪しようとしているので守って欲しい』と懇願の手紙を送ってきました。

被害妄想がすぎるー。ペリーは手紙を読んだのち、そう思いました。
太平天国の反乱軍の最大目的は清朝政府打倒にある。それをせずに外国人を襲撃し、西洋列強と戦争をする羽目になる道を選ぶとは思えなかったのでした。
しかし上海に在住する中華弁務官であるアメリカ人外交官マーシャルはペリーと異なる見解を持っており、中国に居留するアメリカ人の保護をなにより重視していました。

日本を重視するペリーと中国を重視するマーシャル、このふたりの意見の対立は、最初のペリー来航の前から問題化していました。

しかしながら、地位的においてペリーが不利でした。そこでペリーは一計を案じたのでした。

ペリーは自分が東インド艦隊の司令長官に過ぎないなら、マーシャルの命令を受ける立場にあり、日本との交渉は延期せざるをえなくなると判断した。そこでペリーは役職名を自分で変更した。
Commander-Chief of U.S Naval Forces in the East India, China, and Japan seas である。東インドのほかに「中国・日本海域」を追加し、自分の所轄海域を自分で拡大したのである。(略)
翌年の二回目来航時には再び追加した。Commander-Chief of
U.S Naval Forces in the East India, China, and Japan seas, and special Ambassador to Japan.である。(略)「特命欽差大臣」(特命全権大使)というのが新たに加わった部分である。

「幕末外交と開国」 加藤祐三より

このように加藤祐三氏はペリーが肩書を盛った理由は中華弁務官マーシャルとの対立にあったとみています。

しかし、ことは肩書の改変だけで済む問題ではありませんでした。

艦船を中国海域に残すべきと主張するマーシャルに対して、ペリーは全艦船を率いて日本に2回目の来航をすべきと主張します。

ロシアのプチャーチンの来日やフランス側が不審な動きをしているという情報が、ペリーを焦らせていました。

日本を開国させるのは自分であるべきと思っているペリーですが、彼が要求うした『第2回日本遠征は12隻の艦船による大艦隊』は叶えられず、実際は10隻しか割り当てられませんでした。
ペリーは予定を繰り上げて第2回日本遠征をおこなうこととしました。

悠長にしていたら、この先どんなアクシデントが起き、日本来航が出来なくなるかもわかりません。
ペリーは2回目の日本来航を急がせます。

しかし、アメリカ政府はペリーに蒸気船1隻を中国に残すよう指示します。

冗談ではない。3隻の蒸気船のうち1隻を残せば、第1回目の来航と同じ蒸気船の数になるではないかー。
ペリーはこの指示に対し、すでに先発隊は日本に向けて出発したので、艦船編隊の変更はできない。しかし、3隻の蒸気船のうち1隻は、指示通り江戸湾からマカオに向わせます、と返答を送り返し、日本へと向かいました。

ペリーの第2回目の日本来航はこのように、アメリカ本国との駆け引きの中で行われたのでした。


■参考資料
『幕末外交と開国』
加藤 祐三 (著)

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