西暦で見た幕末・維新(4)~小笠原諸島・父島~

【はじめに】
歴史に対する見解は諸説あり、異論・反論もあるかと思います。
これはボクが読んだ書籍等から、そうだったのかもと思ったものです。
ですので、寛大な心で読んでいただければ嬉しいです。
また年代・人名・理解等の誤り等のご指摘や、資料のご紹介をいただければ幸いです。
では、始めさせていただきます。


ペリー率いる艦隊が琉球王国に来航したー。薩摩藩主島津斉彬は岡山でその知らせを受けました。

日本との通商交渉に失敗した場合の保険として琉球王国に補給のための港を作るつもりか、それとも日本だけでなく琉球王国とも通商を結ぶつもりか。

独立した王国として認識されている琉球王国ですが、実質的には薩摩藩の支配下にあります。
アメリカと琉球王国の通商がなった場合、それは決して悪い話でない、とそう斉彬が思ったかどうかはわかりませんが、彼もまた薩摩藩を背負った為政者です。

今までやって来た異国の者とは明らかに違う•••。
非公式にオランダから幕府を経由してペリー艦隊の情報を得ていた斉彬の心の中で、ペリーという人物はどのように捉えられていたのでしょう。

そして斉彬をもってしても知ることがなかった、ひとつの事実がありました。
琉球王国に来航したあと、ペリー率いる艦隊が、小笠原諸島に向かったことを。

ペリーが生前に残したメモの中には『小笠原諸島の父島に植民地を建設する必要がある』というものがあります。

当時、父島には31名の人が住んでいました。
アメリカ人、イギリス人、ポルトガル人、ハワイ諸島などからの移住者たちです。
ペリーは父島をアメリカの領土とするつもりでした

1853年6月14日。ペリー艦隊は小笠原諸島の父島に到着しました。その時の様子を、「ペリー来航」著:西川武臣 から引用します。

当時の父島は、小笠原諸島の中で唯一人の住む島であり、『遠征記』によれば住民の総数は31名であった。国籍の内訳は、三人から四人のアメリカ人、同数のイギリス人、一人のポルトガル人で、残りはハワイ諸島からの移住者と島で生まれた子供たちであった。住民たちは土地を開墾し、豚などの家畜を飼育し、(略)また、寄港する捕鯨船が穀物や家畜を物々交換で入手することも多かった。
ペリーは、父島を戦略拠点にするにあたって、「主権の問題は今後の課題にせざるを得ない」と述べているが、小笠原諸島の領有権をめぐっては長い争いの歴史があった。(略)
小笠原諸島の帰属問題は複雑であったが、ペリーは当初の計画通り父島をアメリカの戦略拠点としていく。『遠征記』によればペリーはあらゆる種類の野菜の種子を住民に渡してアメリカ船に供給できるように栽培してほしいと述べたといい、将来家畜として飼育するために、島に数頭の動物を放したという。また蒸気船の基地を建設するために、海岸に沿った地域に広い土地を取得し、事務所・波止場・石炭倉庫を建設することを計画した。この地域の海は深く、『遠征記』にじゃ「長い埠頭を造れば、最大級の船も接舷できる」と記されている。

「ペリー来航」著:西川武臣

父島の領土問題については、いずれ日本と交渉することになるだろうが、まずは国書を手渡すことが先決である。
1853年6月14日に小笠原諸島を離れたペリー艦隊は、1853年6月23日~7月2日までの間、再び琉球王国に滞在した後、江戸湾へと向かったのでした。

1853年7月8日の正午ごろ
東京湾に姿を見せたペリー率いるアメリカ東インド艦隊は一旦停止し、大砲に実弾を込めます。
先制攻撃はできませんが、日本から攻撃を受けた場合、即座に応戦するためです。
実弾を込め終わると艦隊は再び進み、午後5時すぎに4隻の艦船は一列に並んで浦賀沖に錨をおろしました。
そして搭載されていた砲門を町に向けたのでした。
これ以上進めない理由がペリー側にはありました。

一方、ペリー率いるアメリカ艦隊来航の連絡が、早船によって浦賀奉行所から江戸へと向かいます。
浦賀にある台場(砲台)は沈黙を保っています。
こちらも沈黙せざるを得ない理由があったのです。

多くの日本の警備艇がペリー艦隊を取り囲む中、歴史の大きな転換点となる日米交渉の第一幕が始まろうとしていました。


引用・参考資料

■「浦賀奉行所」著:西川武臣  出版社:有隣堂

■「ペリー来航」著:西川武臣 出版社:中央公論新社

■「黒船異変―ペリーの挑戦」著:加藤祐三 出版社:岩波書店


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?