西暦で見た幕末・維新(2)~ペリー艦隊、来航の目的~

【はじめに】
歴史に対する見解は諸説あり、異論・反論もあるかと思います。
これはボクが読んだ書籍等から、そうだったのかもと思ったものです。
ですので、寛大な心で読んでいただければ嬉しいです。
また年代・人名・理解等の誤り等のご指摘や、資料のご紹介をいただければ幸いです。
では、始めさせていただきます。


ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が日本にやってきた目的について、大きく分ければ以下の3つの説が提唱されているように思えます。

●中国へ太平洋を横断して航行する為に必要な寄港地を日本に確保するため
●当時盛んにおこなわれていた日本沿岸での捕鯨で難破したアメリカ人船員対する人道的対応改善を求めるため
●当時鎖国政策をとっていた日本国自体との通商のため

現在、どの説が有力なのでしょうか。
おそらく最初のふたつのどちらか、またはその両方なのでないかと思うのですが。
(3番目の説については、中国という大きな市場があるのに、あえて日本に固執する特別な理由が西洋諸国にないのでは、と考えています)

ペリーによる日本来航の始まり。それは、以下の1851年5月10日からでした。

フィルモア大統領はオーリック司令官に開国交渉を任せることを決断します。五月十日、ウェブスター国務長官は日本の将軍宛に大統領親書を書き上げます。

「日本開国: アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由 」著:渡辺 惣樹

当初はペリーでなく、オーリックという軍人が日本開国の使者として選ばれていました。

同年6月8日、オーリック東インド艦隊司令官は、新造の蒸気戦艦サスケハナ号で中国の広東に赴きます。
しかし、同年11月18日付で、オーリックは東インド艦隊司令官から解任されます。
(解任の理由は、書籍によって異なるため、真相は不明です)

代わって、日本開国の任務を託されたのが、ペリー提督でした。

ペリーは任務を遂行するにあたり、かって日本に滞在していた有名なドイツ人医師、シーボルトの著書『日本』等を参考にし、日本に対する知識の取得や日本人の国民性の分析を行っています。

ペリーたちと一緒に再び日本を訪れることを希望したシーボルトですが、ペリーはその望みを却下しました。
その理由として、日本から追放されたシーボルトを一同行させることで、日本側の心証を悪くし、結果的に開国交渉が円滑に行かなくなることを危惧した、という説があります。

諸般の事情によりペリーの出発は、1852年の秋までずれ込みます。

国務長官代理コンラッドから以下の新たな訓令を受け取ったときはすでに秋になっていた。

 一、この島々で難破したり天候のため入港を余儀なくされたアメリカの船員と財産を保護するため、何らかの恒久的取り決めを結ぶこと。
 二、アメリカの船が、食料・水・薪その他の供給を受け、また災害に会った際に航行を全うできるよう修理するため、一つないしそれ以上の港に入港する許可を得ること。
 三、我々の船が、積み荷を売買または物々交換によって処分するために、一つないしそれ以上の港に入港する許可を得ること。
 
これらの課題を達成する方法として、訓令はペリーに、何らかの威力を誇示することが重要であると指摘し、日本海岸の適切な地点に向かって全勢力を率いて進出した後、日本政府との交渉に入り、できれば皇帝と会見して大統領の国書を捧呈するよう求めた。
ただし。大統領に宣戦の権限のないことに注意を促して、自己防衛か、ペリーまたは士官が個人的に傷つけられた場合を除き、力を行使してはいけないとの制限を付し、また威厳を損なわず、しかもできるだけ礼儀正しく我慢強くふるまうようにも求めた。

「ペリー来航」著:三谷博

※捧呈【ほうてい:手をささげて、差し上げるという意味】

引用によると、アメリカ政府はペリーに対して、日本開国の交渉にあたり『礼儀正しく我慢強くふるまう』ことを要求しています。

しかし、ボクたちが持っているペリーの印象は、果たしてそうでしょうか?
開国しなければ我々は戦争も辞さない、といった強気の交渉を日本にしに来たアメリカの軍人という印象を持っている方の方が多いのではないでしょうか。

高圧的態度で日本政府に圧力を懸けなければ、日本政府(=徳川幕府)に、甘く見られ、鎖国の厚い壁を突き崩し、開国の扉は開けられない、そうペリーは判断したのかもしれません。

新たに作成されたフィルモア大統領の国書がペリーに託されました。
(この新たな国書の内容については、のちに記したいと思います)

さて、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が、どのような航路をたどって日本に来たのか、艦隊の滞在期間を含めて、「ペリー来航」著:西川武臣 に記載されていた『ペリー艦隊 日本遠征航路』から抜き出し、以下に表してみました。(航路と日付は旗艦のもの)

●1852年11月24日:アメリカノーフォーク港
●1852年12月11日~15日:マディラ島
●1853年1月10日~11日:セントヘレナ島
●1853年1月24日~2月3日:ケープタウン
●1853年2月18日~28日:モーリシャス島
●1853年3月10日~15日:セイロン島
●1853年3月25日~29日:シンガポール
●1853年4月7日~28日:マカオ・香港・広東
●1853年5月4日~17日:上海
●1853年5月26日~6月9日:琉球王国
●1853年6月14日~18日:小笠原諸島
●1853年6月23日~7月2日:琉球王国
1853年7月8日~17日:東京湾

「ペリー来航」著:西川武臣

当時まだ太平洋航路は開拓されてなく、大西洋~喜望峰~インド洋を進むという大航海をしています。
蒸気船の燃料の石炭や食料・水などの補給や休養のため、日本に来るまでに色々な場所に寄港していますね。

特に目を引くのが、琉球王国に2回寄港していること、小笠原諸島に寄港していることです。それは何のためでしょうか。
 
尚、引用元の書籍には東京湾と記載されていますが、ここでは、時代に合わせて江戸湾と書かせていただきます。
(本来、江戸湾という呼称は存在しないのですが、東京湾では違和感があるので、ご了承ください)

ここで注意すべきことがあります。
実は、徳川幕府の首脳(老中)にとって、ペリー来航は寝耳に水の出来事、では決してなかった、ということです。

新たに知ったのですが、『日本は江戸時代、鎖国をしていた。唯一の例外が長崎の出島である』は誤った歴史認識だということです。

現在では、江戸時代での日本は「対馬口」で李氏朝鮮と、「薩摩口」では琉球と、「松前口」ではアイヌと、「長崎口」ではオランダ人や唐人(中国人が主体だが東南アジアの人々も含む)とつながっていた、と考えるのが定説となっている。これらの口はあわせて「四つの口」と呼ばれる。

『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』著:松方冬子

この「四つの口」にひとつ「長崎口」からの情報で、徳川幕府はペリー来航の情報を1年前から知っていたのです。

オランダ船が長崎に来航する際に、徳川幕府に海外情報に関する風説(噂やニュース)をまとめた書物を『オランダ風説書』(おらんだふうせつがき)といいます。
また『オランダ風説書』とは別に、さらに詳細な海外情報を記述したものは、『別段風説書』と呼ばれました。
1852年に日本に送付された『別段風説書』の末尾に以下の記述があります。

北米合衆国政府が日本との貿易関係を結ぶために同国へ派遣するつもりの遠征隊について、またもや噂が流布している。合衆国大統領の日本宛の書翰一通を携え、日本人漂流民数人を連れた使節が日本へ派遣されるとのことだ。その使節は、合衆国市民の貿易のため、日本の港をいくつか開かせようとしており、また、日本の手ごろな一港に石炭を貯蔵できるように許可を求めるらしい。後者の港は、アメリカがカルフォルニアと中国との間を結ぼうと計画している蒸気船の航路のために必要とされている。(略)
最近受け取った報告によれば、遠征軍司令官オーリック准将はペリー准将と交替しるとの由。(略)
新聞によれば、上陸用ならびに包囲戦用の資材も積み込まれた。しかしこれらの戦艦の出発はかなり遅れるだろうと報道されている。

『オランダ風説書』著:松方冬子

『噂が流布している』と前置きされていますが、オーリックからペリーへの司令長官の交代も的確に書かれています。
書籍『オランダ風説書』によれば、長崎奉行はことの重要性を理解し、この『別段風説書』を江戸の老中首座、阿部正弘に送付したようです。

このように1年前から、ペリーがやってくる(という噂がある)という情報を、徳川幕府の老中は入手していました。
ですが、特段対応をしたようには思えません。
江戸幕府もまた、決して一枚岩の組織ではなかったようです。


参考・引用資料:
■『ペリー来航』著:三谷博 出版社:吉川弘文館

『日本開国: アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由』著:渡辺 惣樹 出版社:草思社

■『オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」』著:松方冬子 出版社 ‏ : ‎ 中央公論新社


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?