西暦で見た幕末・維新(5)~旗艦サスケハナ号へ~

【はじめに】
歴史に対する見解は諸説あり、異論・反論もあるかと思います。
これはボクが読んだ書籍等から、そうだったのかもと思ったものです。
ですので、寛大な心で読んでいただければ嬉しいです。
また年代・人名・理解等の誤り等のご指摘や、資料のご紹介をいただければ幸いです。
では、始めさせていただきます。


浦賀沖でペリー率いる4隻の艦船が錨をおろして停船した理由はとても単純なことでした。
アメリカ政府が入手した日本地図に江戸湾の水深が記入されていなかったのです。そのため、測量をせずに江戸湾に進むのは危険であると判断し、いったん停止したのでした。

一方、日本側はというと。
1837年にモリソン号が来航した際には、浦賀の砲台から問答無用で発砲したのに、今回しなかったのは、幕府からの通達によるものでした。

1806年(文化3年)、江戸幕府は「薪水給与令」を出し、日本にやってきた外国船に燃料や水を補給させることを認め、穏便に退去してもうようにするという方針をたてました。
 
ところが1825年(文政8年)、今度は「異国船打払令」(別名あり)を出して、異国の船は見つけ次第打ち払い、上陸するものあれば捕らえて殺すことという、物騒な方針へと方向転換しました。
これは異国船の来航が日本各地で増えてトラブルが発生したことによるものと言われています。
 
しかし1842年(天保13年)、再び徳川幕府は「薪水給与令」を出し、外国船に燃料や水を補給させることを認める穏健路線へと戻ったのです。
 
(なぜ戻ったかを幕府が説明する資料はなく、1840年に起きたアヘン戦争が影響しているのでは?という説が有力です)

1837年のモリソン号来航時は「異国船打払令」に従い発砲したのですが、1853年のペリー来航時は「薪水給与令」が出ていたため、むやみに発砲はできなかったのです。

このことで、日米間の戦闘へと発展することがなく済んだのは天祐のように思えます。

そしてペリー率いるアメリカ東インド艦隊が停船したころになると、異国からの船がやってきたという噂を聞きつけたのか、大勢の見物人がやってきていたようです。(怖くなかったのでしょうか?)
 
その見物人たちの中には、若き日の勝海舟、佐久間象山、象山の門弟であった吉田寅次郎(吉田松陰)、そして坂本龍馬もいたという説もあります。 
しかし、今この時の主役は彼らではありませんでした。

なんとかして艦船に乗ろうと試みる、警備担当の各藩から出動した警備艇の日本人たちに対し、銃などを構えて威嚇し、船への乗り込みを阻止するアメリカ人船員たち。

この時の様子を『遠征記』では以下のように記録しています。

『日本人は何度かサラトガ号に乗ろうと試み、警備艇をサラトガ号のどこかに結びつけるためにもやい網を無遠慮に投げかけた。彼らは鎖に伝わって艦によじ登ろうとしたが、それを食い止めようとした水兵が、槍・短剣・小銃を見せてけん制し、日本人たちは思いとどまった。

「浦賀奉行所」著:西川武臣

これはペリーが、然るべき地位のある者しか乗船させてはいけないと厳命したためと言われいます。

その中で、一艘の警備艇がするするとすると進んでいきます。
浦賀奉行、戸田氏秀うじひでからの命を受けた、浦賀奉行所与力、中島三郎助とオランダ語通詞、堀達之助らが乗っていました。
中島三郎助らを乗せた警備艇は、司令長官(ペリー)のいるであろう旗艦サスケハナ号を一路目指して進みます。
 
なぜ、旗艦サスケハナ号が彼らにはわかったのでしょうか。
オランダ語通詞の堀達之助は、『司令長官のいる旗艦には、特定の旗を掲げることになっている』ということを知っていたのです。
そしてその旗のある艦船が、今向かっているサスケハナ号だったのです。

尚、浦賀奉行所の与力、中島三郎助は、のちに榎本武揚らと箱館戦争に参戦し、幕臣として最後まで新政府軍と戦い、命を散らしています。
中島は桂小五郎に造船学を教えており、意外なところで長州藩とのつながりがあります。
(ちなみに中島三郎助は勝海舟とは、仲が悪かったようです)
 
ようやく旗艦サスケハナ号へとたどり着いた中島三郎助ら一行の、最初の日米交渉が始まります。


引用・参考資料
■「黒船来航 日本語が動く (そうだったんだ!日本語)」著:清水康之 出版社:岩波書店

■「浦賀奉行所」著:西川武臣 出版社:有隣堂


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