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「反AI」と「それ以外」

私は生成AIを許容する者。通称「AI推進派」または「親AI」と呼ばれる者として、搾取的な"無断学習"に反対することは、一理あると思っている。学習されたからといって、誰も養ってはくれないのだ。それでは困る。
そのため、この点に懸念を示しているだけの者を"反AI"とは思わない。むしろ、推進派と呼べるだろう。私は既に妥協し受け入れているが、彼らも無断学習の問題が解決すれば許容するはずだ。
もうひとつ、"規制派"という「悪用に懸念を示し、規制強化を求める人々」についても定義する。
たとえば、個人情報の漏洩やプライバシーの侵害、情報工作を目的とした偽情報の蔓延、ディープフェイク。端的に、リスクは可能な限り減らすべきだと考えている者である。
便宜上"規制派"とは言うものの、これを望むことは至って普通であろう。こちらも主張の強度によりグラデーションはあるが、ある程度までは推進派といえる。

しかし、「若い芽が…」「置き換えられる…」「文化が…」「人の温かみが…」などのスタンスを取る者は、明確に"反AI"である。
これらは、ニューラルネットワークの訓練がどのように行われているかと無関係な問題であり、自動化の影響や環境の変化に対する抵抗感が根底にある。将来的に、アンドロイドを打ち壊す者たちだ。
なお、X上で規制派を自称する者の大半は、反AIである。

偽の「AI」ラベルをつけられた作品に対し、本当にAIだと思い込んで馬鹿にする大量の愚か者。
"Pick up a Pencil"というテキストと著作権で保護されたキャラクターが描かれている、他人が作成した「ファンアート」を思考停止で転載しつづける愚か者。
数以外に見るべきところを探すほうが難しく、一部の人間が大量に送信していることを隠しもしていない、怪文書パブコメを自慢する愚か者。
画像生成AIをきっかけとしてムラの掟であるエセ著作権を学び、「翻訳には著作権がないから良い」などと言ってしまう愚か者。
Wikipediaの記事をくりかえし偏った方向に編集しつづけたためにBANされ、サブアカウントで舞い戻るもふたたびBANされた愚か者。
情報を精査せず拡散する愚か者。
ポジショントークで扇動するメディア。
彼らは皆、正しい行いをしているつもりなのだ。

AIを開発推進する企業とその利用者に対して、一部の瑕疵も許さない態度を取りながら、人間の功罪が詰まったインターネット上で、幾度も訴訟され、罰金を命じられた経験が豊富なサービスを利用し、現在進行系で機械学習モデルのお世話になりながら、嫌がらせと誹謗中傷に明け暮れるそのお見事な行動と、自身の倫理観との整合性をどう取っているかは気になるところだ。
「私はしていない」「そのように使用する者が悪い」「これは悪用されるために生まれたのではない」「XYZはABCと違ってメリットがデメリットを上回っている」。典型的な返答である。
便利で悪用されない技術、人間を置き換えない自動化など、基本的には存在しない。便利な技術は悪用される。自動化とは、関わる人間を減らし一部または全部を機械に任すことである。
悪影響を受ける一部を切り捨てんとするその現実的な思考は、本当に倫理的なのか。全人口の一部でしかない者から搾取し、切り捨て、置き換えるかわりに、自他の利便性を向上させることを優先する閾値はどこだろうか。
現実的な妥協点を探ろうとするなら、それは程度問題である。はたして、どの地点で許容するのか。
さしたる倫理のない者が、自身の倫理観を過剰に見積もるからおかしくなるのだ。倫理的でありたい、あるべきだという意思は立派だが、思うだけであれば誰でもできる。倫理の実践は自他ともに高い基準を要求するものであり、好悪によって恣意的に決定されるような、生易しいものではない。つまるところ「軽い」のだ。倫理という言葉が。まずは、自分が高尚な人間ではないという自覚を持つことから始めるとよい。

さて、AIの利用は、検閲が行われるクラウド上に留まるものではない。上記規制のような情報漏洩やプライバシーの観点から、閉じたネットワーク内で利用する需要も非常に高まっている。そもそも検閲とは、一歩間違えば権利侵害と認定される可能性のある行為であり、民主主義国家ではなかなかに難しい課題であることも留意しなければならない。
根本的に、厳しい罰が待っていようとも考えなしに、または熟考した末に悪用する人間は必ず存在する。なにしろインターネットは、生成AI以前からデマゴギーによる情報工作、無邪気なフェイクニュース、名誉を毀損するクソコラとハラスメントなどのオンパレードである。理性的な人間ばかりであれば、こうはなっていない。我々はいま、この現実に生きている。
結局のところ、現在のAIは道具である。どのように使うかは、我々次第だ。
テキストから何かを生成する機能は、基盤モデルが可能とする代表的なタスクの一つでしかない。生成されたものが気に入らなければ、破棄すればよい。再び生成するもよい。加工してもよい。AIそのものの調整や、特定のタスクを実行するためのツールを開発してもよい。そもそも不要だと思うのならば、使わなくともよい。
幸い、トンカチで布に刺繍することを強制されてはいないのだ。

現時点での生成AIは、実際の知能とはほど遠く、ツールとしても手探り状態の技術である。しかし、その応用力と改善の速さには目を見張るものがある。過大評価するべきではないが、過小評価もしてはいけない。
トレーニング手法が改善されると、性能は向上し、コストが低下する。元は同じデータであるにも拘らず、内容を工夫することで性能が向上する。些細な調整で、最終的な性能が変わる。
今この瞬間での最先端は、数カ月後には導入されて当たり前のアプローチであり、その頃には、またあらたな手法がいくつも生まれている。これはAIではなく、人間の努力の成果だ。今のところ。しかし、AIがAIを改善する未来は、着々と近づいている。
どれほど規制しようとも、計算資源を調達できれば作れるものだ。手元に計算資源がなくとも、借りればよい。
人間が興味を持って研究する以上、進化は不可避である。それはつまり、悪人の手口も巧妙に進化するということだ。前例をなぞれば再現可能な技術を、核弾頭より容易に所持できるものを、どう止めるのか。
イーロンマスクがOpenAIを敵視し、開発休止に賛同した裏で独自の生成AIを作らせていたように、できる者はできるのだ。
そのうえ、誰もが情報を共有してくれるとは限らない。我々が認識できるのは、公開された情報から読み取れる内容のみである。

では、58億枚もの画像を学習した圧縮解凍複製コラージュツールなどという伝聞に次ぐ伝聞により、恐らく十数年先の未来からもたらされた技術を搭載している、無料で誰でも利用可能な画像生成AI『Stable Diffusion』を例に用いて、公開してくれることのありがたみを実感しよう。
Stable Diffusionは、その悪魔のような性能に対して非常にコンパクトで取り回しの良い、無断学習生成AIだ。
そして、画像生成AIに対抗するための学習阻害ツールGlazeは、この無断学習したAIに依存している。
CLIPやStable Diffusionが泥棒の産物であるならば、Glazeチームは泥棒の肩の上に座っていることになる。どのような綺麗事を語ろうと、それが事実だ。ユーザーは、Stable Diffusionが数多の著作物で訓練された事実と同様に、この事実を受け入れたうえで利用することが好ましい。
本音としては、いまだこのような状況にあることは如何なものかと思う。Glazeは妥協せず、コンテンツホルダーに協力してもらい適切なライセンスを取得したデータで、ゼロから各モデルを作り直すべきだった。今の状態は、結果が同じであるなら過程を気にしないことと同義ではないか。

話を戻す。
仮に画像生成AIが、OpenAIないしGoogleに独占されていたとしよう。我々は、それをAPI経由で利用できるだけのユーザーだ。プロンプトを入力し、画像を生成できたとして。果てしない実験の末、何かの拍子にインターネット上のさまざまな画像を学習していることが判明したとして。どのように対抗できただろうか。
そもそも敵の情報が公開されていなければ、動作は確認できず、それがどのように学習し、どのように生成するかも分からないのだ。阻害技術を施した画像を任意に学習させられないので、効果も計測できない。
生成させてもらえるだけ、まだ救いがあるとも言える。独占、秘匿され、こっそりと使われたらお手上げだ。
現状、この学習阻害ツールは、インターネット上にあるデータを共有財として扱う怨敵がクローズドな体制に反発し、自らの成果をもオープンにする思想だったおかげで作れたにすぎない。とはいえ、あるものは使えばよいとする精神は大事だ。たとえ、自らが泥棒と呼ぶ無断学習の賜物であっても。
だって、お金も資源もないのだから、仕方ないでしょう。ライセンスで禁止されてもいないし。違法じゃないからね。だいたい、圧縮解凍生成AIとは違うもん。非倫理的なものを倫理的に使ってあげてるだけなんだ。

こうした議論において重要なのは、感情論に流されず冷静に技術と事象を評価して、どのように対応していくべきかを考えることだ。
反AIが真に懸念しているのは、技術が引き起こすかもしれない社会の変化と、それに伴う役割の喪失であろう。
恐れや反発だけで問題は解決しない。適切な規制と教育を通じて、正しい利用方法を周知し、少しでも非倫理的な行いを減らす努力が、この過渡期に生き「未来を考える」者の責務であると考える。


後記

ここまで約45分ほどかけ、4000文字ほどの文量である。最先端の言語モデルであれば数分で、より分かりやすい文章を出力してくれることだろう。
しかし、このノートは私のお気持ちである。結果的に他人から見てAIと大差がなかろうとも、AIの方が優れていると思おうとも、私が私のために、自力で書くことを選んだ。ただそれだけだ。
AIで良いと思うものにはAIを使えばよい。紙にペンでもよい。アスキーアートでも、ピクセルアートでも、好きなように好きなものを作ればよい。
生成AIは、創作の邪魔をしない。邪魔をするのは、いつだって人間なのだ。

余談だが、海外では反AI vs 反反AIのレスバが非常に盛り上がっている。どちらの陣営も日本とは比べ物にならないほどの数がおり、勢い任せで突っ込んでいく者が絶えない。その不毛な衝突で高まった熱は常に、反AI活動をしていないクリエイターやAIを利用しているだけのユーザーに対して、ハラスメント、脅迫、殺害予告という形で表れている。大衆の倫理など、その程度のものだ。デマの流布を咎める以前の、あまりにも知性が感じられない原始的な争いが大規模に繰り広げられている。
日本の反AI、反反AIも大概だと思っているだろうが、これでも日本はごく一部の攻撃的なデマゴギーに感化されている者がいるだけだ、と言って良い。まだ。

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