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日本の医師との出会いや、技術指導をするきっかけとなったエピソード


今回もジョン先生にお話を聞いてきました。

韓国に留まらす、日本、アジアで圧倒的な鼻形成術の神様になったジョン先生。
実に鼻形成術(オープン法)の症例数は3万5千件を超えています。
絶対的技術で日本の医師たちから絶えぬ技術講習のオファー。
日本の医師との出会いや、技術指導をするきっかけとなったエピソードを紹介させてください!


ジョン先生が日本での技術指導者となった経緯

ジョン先生:私は今まで17年間、鼻の手術に専念してきました。初めて鼻の手術を行った2004年は、私の師匠の教えの下に、何でも学びたい、よりうまくなりたいという気持ちで、常に忙しい日々の若い素人医師でした。

▼師匠とジョン先生の写真

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私も“弟子を育てたい

2010年以来、鼻の手術に関する知識や経験が少しずつたまり、鼻再手術に対しても自信がついてきた頃だと思います。私自身の未来に対して考える余裕ができました。結局、手術者も人間であり、徐々に年を取り、いずれかは老けていきます。

自分の手で行った貴重な手術の経験や様々な患者さんに関する覚えを誰かに伝えたくなるのは、同年代の先生ならみんな同感すると思います。
そのころから、海外の色んな国より講義やライブ手術を求められ、新しい経験をしているうちに、私も“弟子を育てたい”との気持ちがわいてきました。

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私は韓国の田舎育ちで地元の医学部を卒業しました。大学の後輩たちとも交流していて、そのうち一人か二人をいつか私の弟子にしたいと思い、静かに後輩たちを教えました。その当時は私もまだ覇気溢れる若い医師(40代前半)だったので、後輩たちには常に 「心配せず私のことを信じて付いてきてほしい」との台詞をよく言っていました。しかし、私の気持ちとは違い、後輩はそれぞれの考え方や欲求がありました。期待が高かったせいもあり、後輩たちのそのような態度にガッカリしたことも事実ありました。

それから数年が経ち、出会った日本の医師たちとコミュニケーションをしているうちに、日本の先進的な文化や韓国とは違う独特な魅力にハマりました。
私の幼い頃の記憶をたどると、自分は常に日本の文化と接していたことを改めて感じました。1940年代、韓国の騒がしい状況の中で日本へ渡り留学をした母方の祖父や、舞踏家として活躍したチェ・スンヒ氏と一緒に活動した祖母から聞いた昔話を思い出し、日本という国に対し、好奇心を持つようになりました。

「いつか日本に私のクリニックが出来たらどんな感じかな?」という根拠なき夢

そのような私の好奇心は、自然に日本の医師たちはもちろんのこと、日本の学会とも繋がる原動力になり、日本のいくつかのクリニックから医師教育の依頼を受け、そのきっかけで日本の素晴らしい先生たちとも出会えるようになりました。そうなると漠然とした夢が生じてきました。

「いつか日本に私のクリニックが出来たらどんな感じかな?」という根拠なき夢、だと当時はおもいつつ一人で笑ったりもしました。それから数年間、医師教育を中心に、東京、大阪、福岡へ通うようになりました。
(日本での技術講習会の写真)

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エピソード2へ続く▶︎▶︎池先生との出会い。一番弟子選んだワケとは。

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