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14-1.リアリティとは

『動画で考える』14.動画が作るリアリティ

品質の異なる2台のモニターを並べて、同じ動画を再生してみよう。

「リアルな動画」ってどんな動画だろう?最新のビデオカメラで撮影されて、最新の高精細なモニターに写し出された動画は、確かに「リアル」であるように思える。

いま自分が見ている動画が「リアル」かどうかは、その動画だけを見ていても判断できない。少し前に買ったビデオカメラで撮影して、古いモニターで再生した動画でも、それなりに「リアル」に見えるし、自分が必要としている動画の品質は、十分そこに再現されているように思えるはずだ。

動画の品質やそこで再現されているもののリアリティにも差があると気が付くのは、2つ以上のモニターを並べて比較した時だ。それぞれに再現された動画は、明らかに違った印象を与えることにはじめて気が付く。例えば、ギターを演奏する人物を撮影した動画を視聴する場合。古い機材で記録された動画では、腕の動きの緩急でさまざまな音が表現される、その全体の大まかなアクションを視聴していたのが、最新の装置で記録された動画では、弦の材質や、それが弾かれさまざまに揺れる様子や、演奏者の着衣の揺れやこすれる様子まで見て取ることが出来る。どちらも撮影対象が同じでも、視聴体験のレベルが変わって、受け取る印象がまるで異なる事に気付くだろう。

最新の機材を使って撮影された動画は、画質が良いとか、クリアに見えるなどと表現されるし、それを「リアルだ」と言うこともあるだろう。それに対して古い機材で撮影した動画は、画質は悪く、クリアさにも欠け、記録されている対象も不明瞭であるように思えてくる。一度その事に気が付いてしまうと、ひたすら最新機材に買い換え続ける羽目になる。

しかし、古い機材で撮影された動画は「リアルではなかった」のだろうか?

あなたが「リアル」に感じる動画のポイントはどんなものなのか思い浮かべてみよう。

モノクロ・モノラルのビデオ装置で記録されたギター演奏、ビデオテープが劣化して、画面にノイズが入ったり音もくぐもって聞き取りにくい箇所もある。それに比べて最新機材による動画は、全てがクリアで臨場感も十分だ。どちらが「リアル?」と聞かれれば「それは新しい方でしょ」と言いたくなるのもわかる。

だがそれは、どちらも実際の演奏とはまったく異なる動画による記録であり再生である限り、どちらが「リアル」ということはなく、単に視聴体験のレベルが異なる、としか言いようがない。

「リアルさ」とは装置の性能には依存していない。「リアルさ」はそれを視聴するものの感覚に依存している。だから装置が新しくても古くても、そこにはそれぞれの「リアルさ」があると言うべきだ。「リアルさ」の表現を追求するなら装置の新しさを追い求めるのはムダなことだ。高精細さや速さも一つの表現だが、低解像度や遅さもまた表現だ、という程のものでしかない。

電話の音声は、音楽用のハイレゾリューションの音声に比べると解像度は劣るが、電話機を通して聞こえてくる声が「リアルではない」という者はいない。通話音声が、途切れ途切れだったり、雑音に紛れて聞き取りにくくても、相手の心情や体調を気遣える程度には「リアルさ」をそこに感じ取っているはずだ。

街の大衆的な定食屋に入ると、誰からも見えるような高い位置にテレビモニターがぶら下げてあって、それは長い間煙草の煙や飛び散った油にまみれて変色して、画面もぼんやりとしているし、ちゃんとアンテナが接続されていないのか、ノイズ混じりの画面は頻繁に揺らいでいる。そんな動画でさえ、「リアル」な何かだ。

「リアルさ」に必要な技術は「最適な」技術だ。それは必ずしも最新・最高である必要はない。常に新しいもの高価なものへと移行するように誘いかけるのは、装置を売るものの都合でしかない。

「よりよく見えないこと」「よりよく聞こえないこと」とのリアルさを感じてみよう。

個人が動画を扱うための装置として、8mmや16mmのフィルムを使った撮影・再生装置はもはや骨董品だが、それを必要とする「リアルさ」もあるはずだ。最新の装置のような手軽さ・速さ・便利さなどは何も期待出来ないが、それは全て欠点でもあるかも知れないし、利点でもあるかも知れない。そのような装置でしか表現出来ない「リアルさ」があるとすればその装置を使えば良い、その選択肢を失ってはならない。

「見えること」「聞こえること」が視聴体験のレベルの一つだとしたら、「見えないこと」「聞こえないこと」も、また一つの視聴体験だ。だから、「よりよく見えること」「よりよく聞こえること」を追求するなら、「よりよく見えないこと」「よりよく聞こえないこと」との「リアルさ」も意識しなければならない。

最高のオーディオ装置で再生された臨場感あふれるリアルな音がある。一方で、遠くの方からかすかに聞こえてくる音楽というものも、私たちは良く知っていて、それは動画的な音だと言える。その音楽は同じ建物の別の部屋から聞こえてきたり、街のどこかに設置されたスピーカーから流されていたり、歩いていて不意に聞こえてきたかと思うとすぐに通り過ぎていく音もある。

前者は、余計な音は一切排除して、純粋に録音された音を忠実に聞かせようとするし、後者は、さまざまなノイズを含んだ音として聞こえてくる。そのノイズは、風の音だったり、人の話し声だったり、クルマの走り去る音だったりする。そのようなノイズも、「よりよく聞こえること」には不要であっても、「よりよく聞こえないこと」という「リアルさ」にとっては必要な要素なのだ。

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