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17-1.終わり方

『動画で考える』17.動画の終わり方

あなたが始めた動画の撮影を、終わらせるタイミングについて意識してみよう。

始めたことは、いずれ終わらせるときが来る。難しいのはいつ終わらせるか、だ。

歩き始めたらいつかは立ち止まることになる。しかしいったい、いつまで歩き続けるのだろう。疲れて足が重くなって自然に動けなくなるまでだろうか。あるいは何か考え事をしていて、何かしら歩くのをやめる理由を見つけてそうするのだろうか。その先に進むべき道がなくなったか、行く手を遮るものが出現したか。いつ歩くのをやめるべきかと考え始めると、その明確な理由はそんなに簡単には見つからない。

動画の撮影も簡単に始めることができる。録画ボタンを押すだけで撮影は開始される。しかしそれをいつストップしたら良いのか。

美しい風景を動画で撮影する場合。一枚の写真を撮影するだけだったら、シャッターを一回押して撮影を終えることができる。動画の場合は、録画ボタンを押した後にも、一定時間撮影を持続することになる。美しい風景を動画で撮影するための最適な時間なんてあるんだろうか。その動画を誰かに見せて、美しいと思ってもらえるような時間は、ある程度の長さを持っているべきだろうか。チラッと見て終わりではなく、じっくり見て鑑賞できるような、そんな長さ。そんな最適な長さはなかなか決められるものではない。

その画面に何か変化があるとすると、撮影を止める手がかりとなるかも知れない。つまり誰かがその風景の中に現れて、やがていなくなるまでの時間。それは人でも動物でもよいだろう。誰かが画面の端から端まで歩いて横切る間。その人がいなくなれば撮影を止められる。本当に?誰かがいなくなった後の場所も必要では?もしかしたら引き返してくるかも知れないし。

動画の撮影を終えた後の、その場所や人物の様子について観察してみよう。

誰かが話をしている様子を撮影するとき。一通り話し終わって話が途切れたときに、撮影をストップするかどうかは考えものだ。人はたいがい、撮影を止めるとそれまで以上に興味深い話をするものだから。この後もっと面白い話が聞けるかも知れない、と思い始めるといつまでも撮影は止められない。もちろんその人物の個人的な都合もあるし、撮影を依頼する際の約束もあるだろう、やがて撮影は止めなければならない。

もし、なんの制限もなく撮影を続けて良いのなら、その人が話を終えた後も撮影を続けて、その人が部屋を出て、建物を出て、駅に向かう間も撮影は続けられる。電車に乗って、乗り換えて、やがて自宅に着くだろう。家族と食事をするか、一人で簡単に済ませるか、シャワーを浴びるかお湯につかるかして、1日の終わりにベットに入って一言、何かとてつもなく面白いことをつぶやくかも知れない。動画は、そうしようと思えば、そこまで撮り続けることだってできるはずだ。そこまで考えると、本当の終わりとはその人物の死の間際なのかもしれない。

自然の風景は、撮影する観点によっては、時間の推移や天候の変化を記録することもできる。短時間の間にも、光線の強さや角度が変化して、画面の表情は大きく変化していく。朝方の光線と昼頃の光線とでは、画面の色調もコントラストも大きく変化する。当然、日出から日没までの風景の変化は予想以上にダイナミックだ。年間を通してであれば尚更で、春夏秋冬の変化はどんな光景を見せてくれるだろう?と期待させられる。

それを記録しようと意気込んだところで、あなたは基本的な事実に思い当たるだろう。1日の時間を撮影するには1日かかる。1年の時間を撮影するには1年かかるということを。それでも撮影しようと決心して撮影を始めたところで、思わぬ理由で撮影は終了する。もしかしたらそれはビデオカメラの誤作動かも知れない。あるいは録画データの記録容量に限界があって、数時間が限度だったのかも知れない。または、撮影のためのバッテリーが2時間しか持たなかったのかも知れない。

誰も止めないまま撮影を続けるビデオカメラに記録されるものについて考えてみよう。

動画の撮影を止める判断は難しいが、撮影の終了はいつも予想外のかたちで訪れる。ハードウェアの限界。データ容量やバッテリーの限界は、日々拡張を続けているし、いずれその限界は、限界として意識することもない程度まで進化するだろう。物理的には限りなく無限に近く撮影を続けられるときがやってくるとすれば、やはりそれを止める判断はあなたが下さなければならなくなる。

1日、1年という単位で撮影された動画は、それを圧縮することで、直感的に短時間でその全体像を把握できるようになる。「有名観光地の四季味わう」と言った特殊なものばかりでなく、日常生活を長時間撮影し圧縮すれば、身近な日常生活をもっと長い時間軸で俯瞰して把握することが出来る。さらには10年、100年といった時間感覚は、どのように俯瞰出来るのだろう。これまでであれば歴史的建造物や遺跡、化石のような実物を通して把握していた時間感覚を、動画を通して俯瞰出来るようになるのだろうか。

あらゆる日常的な取るに足らない断片のすべてを、動画として記録することができる時代が続く限り、無数の生活の断片が世界中で記録され続ける。そして一度押された録画ボタンを誰かが止めるまで、動画の撮影は続けられる。

いつか動画の撮影を止める日がやってきたときに、あなたはそこにいるのだろうか?

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