見出し画像

広島に行ったときのこと(後編)〜原民喜ゆかりの地巡り編

三日目は原民喜ゆかりの地を巡った。最終目的地は彼が眠る円光寺。墓前で手を合わせるのが今回の旅の一番の目的だ。

前夜、宿に帰る前に詩碑に立ち寄った。

昼前に起きて、先ずは宿近くのドトールでアイスコーヒーを飲みながら散策ルートを再確認した。

梯久美子さんによる原民喜の伝記本と市内の地図を照らし合わせて散策ルートの再確認。

散策ルートを頭に叩き込んだ後、「ひよこ」というラーメン屋で腹拵えをした。前夜、広島駅から宿に戻る時に通りかかった店で、ラーメン店には凡そそぐわない「ひよこ」という店名と、店の前を通りかかった時の匂いに惹かれたのだ。ラーメンは何と400円。この値段でラーメンを食べられる店は、東京にあったとしても極く僅かだろう。

思わず目を惹いてしまう看板。
すっかりいろのあせてしまったひよこ。かなり年季の入った店とみた。
濃くはないけれどパンチはある。飲んだ後に食べたくなる味だった。

腹拵えをして先ず最初に行ったのは被爆柳。民喜の生家の邸内に生えていた柳だ。

次は生家の跡地近くに建つ世界平和記念聖堂へ。

聖堂内に足を踏み入れた瞬間、その荘厳さに思わず息を呑んでしまった。聖堂内最奥の壁面のキリストは磔刑の図ではなく、再臨の図。恐らくキリストの復活に広島の復興を重ねたのだと思う。

聖堂の中を見て歩きながら頭に浮かんだのは民喜ではなく、黒人神学者ジェイムズ・H・コーンだった。壁に飾られているキリスト磔刑のレリーフから、少し前に読み終えたコーンの名著『十字架とリンチの木』を連想したのだと思う。

自分はいかなる神の存在も信じてはいないのだけれど、それでも聖堂の中の空気は確実に外界のそれとは異なるもので、ここでは外とは違う時間の流れ方をしているように感じた。もし近所にこの聖堂があったなら頻繁に足を運びたくなるだろうし、何ならキリスト教に入信してしまうかもしれない。そう思わせるだけの場の力がここには確かにあった。

次は縮景園。ここは空襲時の避難先に指定されたため、被爆直後は多くの被災者たちで溢れたという。民喜とその家族もここに避難し、翌日は東照宮にて一夜を過ごし、最終的に八幡村へと避難した(東照宮は生家周辺からは少し距離があり、八幡村は更に遠かったので今回は行けなかった)。

縮景園はかなり広かったので全てを見て回ることが出来なかった。目にした限りでは原爆を連想させるものは無く、長閑な庭園という風にしか見えないのだけれど、この土地の下に今も被爆によって亡くなった人たちの亡骸が眠っているのだと思うと何とも言えない気持ちになった。

そして最終地である円光寺へ。民喜の墓は入口の丁度対角にあった。ここには民喜の他に妻である貞恵も眠っている。墓の側面には民喜の遺書として有名な『碑銘』と題された短詩(原爆ドーム近くの詩碑に刻まれているのもこの詩である)が彫られていた。

〝遠き日の石に刻み
     砂に影おち
 崩れ墜つ 天地のまなか
 一輪の花の幻”

墓前で手を合わせ、花を持って来ることが出来なかったことを詫び、あなたの遺した小説や詩、そして原民喜という人間がかつてこの世に存在していたという紛れもない事実が自分にとってどれほどの励みとなっているかということを伝え、最後に「貞恵さんと共にこれからも安らかにお眠り下さい」と祈った。

墓に彫られた『碑銘』の写真も撮ったのだけれど、ここには載せないことにする。興味がある方は実際に足を運んでみるといい。広島駅から歩いても行ける距離だし、路面電車に乗れば10〜15分程度で行ける場所だから。

長崎市遠藤周作文学館所蔵の『碑銘』

好きな作家や詩人は沢山いるけれど、原民喜は自分の中で特別な位置を占めている。その理由を時々考えてみるのだけれど、「いつか墓前で手を合わせる」という宿願を叶えた今もよくわからない。わからないままで良いのだと思った。確かなのは原民喜という孤独の花を胸に抱いて、これからも生きていくのだということ。それだけで十分ではないか。

最後にWeb版のNYタイムズに掲載された佐野洋子さんのテキストを貼っておく。原民喜について書かれた文章の中でもっとも胸を打つもののひとつだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?