見出し画像

20/5/29

戯曲を読み直す。
照明、音響、セットの内容が細かく書かれている。
当たり前だが、芸術劇場で上演されたものは、この細かい記載を再現はしていなかった。
それが表現だと言うは容易いが、その必要性がないということだと思う。
この戯曲が書かれてからかなりの歳月が経っている。
世の中は変わり続けているし、価値観も変わり続けている。
シェイクスピア作品がそうであるように、戯曲というのは常に解釈をされて発表され、その時々の観客にまた解釈される。それでも損なわれない普遍性がある戯曲は生き残り、繰り返し上演されていく。
この普遍性の賞味期限について少し考えると興奮してくる。
猿だった頃と現代でも普遍なのか。それともどこかの段階で生まれた意識が普遍まで昇華していったのか。とすると例えば三千年後の未来、我々が普遍と思っていることは変わらず普遍なのか。
こうやって遠い時間を空想すると自己の存在の立ち位置が変わり気分が溶けていく。この感覚はこの空想でしか得られない唯一無二のものだ。
この件については専門家、なんの専門家か分からないが、哲学者とか?の考察を聞いてみたい。

さて、戯曲。
この作品は書いてあるのは言葉だけだが、強くイメージをさせられる。さすがのクオリティ。
故にそれに無自覚に引っ張られることを避けなければ。
演出をやる以上、調理するのは自分だ。
既成の入口から入らないように、つまり舞台ありきで考えることを一旦やめてどう表したおのかとイメージを広げる。
舞台のために書かれた本であるため当然舞台がよく似合う。
しかし、いわゆるウィズーコロナというやつでそれが相応しいかは考える余地がある。
物理的な事情で言えば、劇場がソーシャルディスタンスをとり客席を半分にし熱気が半分になった状態での上演としたらどうか?予算的にも客席が半分でも劇場費は変わらないだろう。そうなればチケット収入は単純計算で半分まで落ちる。これは恐ろしいことだ。興行を成立させCast/Staffの労力に見合った報酬を支払うには商売に長ける必要がある。それも生半可な能力では半分で成立させるというのは土台無理に思えてくる。
ああ、この状況には不条理を感じるなあ。
こうして見ると外堀は形がある程度決まっている部分がある。
だからこその舞台上演という枠を一度取っ払って考えてみるのも悪くないのではないかと思うのだ。自由に出来るところは自由に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?