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20/06/08

所属団体「テンナイン」でラジオ放送を開始。
始めこそリモート録音で音質に難があったが、いまは週に一度のスタジオ通いで収録をしている。音質も問題ない。
こういった新しい試みには、気分が上がり、具体的な何かに対してではないが期待感が生まれる。すぐに結果を想定して動こうとするのが今までの取り組みだったが、やれる範囲には限度があった。ラジオで宣伝効果を生みたいというのは至極もっともな考えであり、それを否定するほど創作者寄りの思考はもっていない。団体運営の思考から、目に見える何か、金とか人とか、を得ることにむずびつけるべきという点にはなんら異論はない。しかしノウハウもないまま付け焼刃で何かをするのはもったいない。この場合は、自由に気兼ねせずに試してみればよい。ラジオはそういう位置づけにすることにする、そうしたいと始めた。
ただし思いついたことは全てやる。
ライブや舞台は立ち止まることをむしろ意識しているし、そこで考えて生み出す努力が必要で、ラジオは止まらず考え込まないという努力を要する。
これはこれでなかなか難しい。前者の思考のほうが自分に染みついているからだ。新しいことを始めるのに今までと同じ思考ではつまらない。新しい思考が成長を促すかもしれないのだ。

新しいことの高揚感や充実感は、大鴉のガラス運びの3人にはない。いわゆる"うだつが上がらない"者たち。3人にとってガラス運びは挽回するチャンスでもなく、ただ日銭を稼ぐ手段であり、その先に救いもない。不条理という枠組みでなければそこからの脱却をしたり、脱却はしたものの何か、―愛や希望だ、が足りないと気づき元の生活に戻ったりする。そういったカタルシスによって人を揺さぶる。そんな手法が取られる。
しかし、それがない。
この部分をなんとかしないといけない。
作品における、作品を上演するにおける面白味とはなにか。これが明確で関係者すべてに共有されることで作品像が浮かび上がってくる。

ー会話や軽妙なやり取りがおかしい
コメディという点では申し分ないが、それだけで90分近くを見続けさせるのか。という疑問が沸く。

ーカタルシスがないのが面白いのだ
そうとも言える。しかしそうとも言えない。社会性やらなにやらを物語る。それ自体が痛烈な風刺である。それはある意味痛快だったり、代弁だったりで、面白いだろう。しかし忘れてはならないのは3人は"ガラスを運んで"いるのだ。ただそれだけなのだ。例え何かの比喩や表現であっても、その運搬する行為自体は風刺でもなんでもない。労働だ。
しかしまてよ、こうして考えると今でいえば「日常系」の作品なのではないか?

日常系にはカタルシスは起こらない。小さな事件はあるものの変わらない日々が続いていく。古くはサザエさんからある今でも人気のジャンルだ。しかしこのジャンルにはカタルシスがない代わりに個性がある。キャラクターたちの個性。少々ぶっ飛んだ設定でも、それが作品の持つ情報量を増して見応えを生んでいく。
大鴉のキャラクター自体には個性があるか?
ここは後付けできる部分だ。役者と演出によっていかようにもできる。
芸術劇場の大鴉の人物たちはそれは個性的だった。それひとつが作品の面白味を時間をかけて観る価値をしっかりと担っていた。個性的というのは感情移入できようができまいが、その人の行く末を気にさせる力がある。日常だろうとSFだろうと、この人の行く末、なんか気になる。と、そう思わせられる。
関心を惹くのだ。

ひとつ考えるものが明確になった。
個性というもので作品を担えるかどうか。担うに足る個性とはなにか。
いまなぜかドラえもんが頭に浮かんでいる。こういう意識していない中での思い付きの繋がりには何かあるような気がしてならない。

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