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『自分が本当に感じていることから枠組みを作っていきたい』—劇団速度 瀬戸沙門インタビュー

聞き手:朴建雄(ドラマトゥルギー)

12月18日(金)から京都芸術センターにて上演される劇団速度『わたしが観客であるとき』。コロナ禍での生活の実感から、今演劇にできることはなにかと問いながら作られてきたこの作品。どんな作り手が、どんな思いで創作に参加しているのか?本作品ドラマトゥルク(創作の相談役)の朴建雄が、劇団速度メンバーであり俳優の瀬戸沙門にインタビューしました。

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【俳優として劇団速度でやっていること】
朴:今回の『わたしが観客であるとき』を含め、劇団速度の作品において、瀬戸さんは俳優として、どのように創作に関わっていらっしゃいますか?

瀬戸:今回は特にそうですけど、ゼロから始めています。作品について考えていることを都度反映するんです。舞台でやっている側から、こう見えるんじゃないかと提案しています。戯曲があって、それを再現したり、演出家の空想を可視化することとは違う作業ですね。フリーで俳優をやっていた時はそういう出演が多かったんです。戯曲の言葉の再現と、演出家の空想の立ち上げ。

朴:そもそも、瀬戸さんはなぜ劇団速度に入られたんでしょうか?

瀬戸:入る前から2回くらい出演していて、戯曲を扱わずに、パフォーマンスを作っていました。ゼロから、行為と言葉が何をイメージさせるか。作品自体を一緒に作っていけるという感じが良かったんです。それで入りました。ずっと誘われてはいたんですが、ずっと断っていました(笑)。どこかに所属することがしっくり来なかったからです。今は所属してるって感じじゃないですね。速度のメンバーで、主に俳優をやってますけど……。

もともと、どこかに所属することを疑問に思っていました。同じアーティストのはずなのに、戯曲や企画を主宰する人が存在してて、そこに疑念がない。それを疑わずに、どう舞台に立つのかを作品ごとに探るのが、自分の中でフェアじゃない気がしていました。どうせだったら、作品を選ぶのがどういうことなのかということから考えたい。枠組みやルールも一緒に作っていきたい。そういうことを任せっきりにして、どうアレンジするかというスタンスでいるのは……。

朴:アレンジすることに専念する職人タイプの俳優さんもいますよね。

瀬戸:自分の場合はですが、アレンジだけだと、何してるんだろうと思ってしまいます。フリーでやってると求められることはそういうことでした。どう見えるかに最適化して、上演のためだけに、自分でルーティーンを組み上げる。生活スタイルもです。上演も再現なので、機械的な生活になります。機械と一緒になってしまうのはしんどいです。そういうことが言葉にできなくて、もやもやしてたときに劇団速度の『蛍光灯の修辞学』に出たんです。この創作では、作品のポイントである蛍光灯をつけ消しする順番を演出の野村さんと話し合いながら、自分の生理感覚を元に決めました。見え方も話しあって決めた。そうしたのに、何回やっても上演時間はほぼ同じでした。順番だけが決まっていて、あとは任されていたのにです。舞台上にまず存在して、蛍光灯をつけたくなる衝動に駆られる、それでつけていただけです。

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【俳優である理由】
瀬戸:俳優の仕事について、そもそも疑問に思っていることがあります。舞台上で台詞を喋ってるとき、喋ってるのは自分だけど、その自分の存在を無視しているのがよくわからないんです。加えて今、目の前にお客さんという人がいるのも見えてるし、劇場という建物にもいる。そういう存在をノイズのように無視して、削ぎ落として、空想の再現、大きな物語を見せるためだけにやるのに違和感があります。そこに存在している人や建物は確かにある。そこに人が生きているということから、作品や、上演が作り上げられていった方がいいと思っています。そういうことが速度ではできます。技術的なことは嫌いじゃないんですが、飲み込まれてしまいます。機械的に物事を最適化するのを苦がなくできるタイプなんですが、そこだけにフォーカスすると機械的で人間じゃなくなっていく感じがする。人っぽく生きたいから、俳優をやってます。

朴:日常生活では人らしく生きられないということですか?

瀬戸:もともと物事を疑わない人間なんです。ルールがあると従って、そのまんまのっていって固執しちゃいます。そうなると、ルールのために生きていくことになる。社会的な規範もそうだし。そうなると、ノイズの部分が削ぎ落とされて、感情とかも表に出なくなっていく。ただ生きてるって感じになります。人とコミュニーケションとるのもそんなに得意じゃないんです。人見知りもするし。なので排他的になって心も荒みそう……。それを10年や20年続けてると、心を病みそうです。演劇はまず人と関わることから始まります。最初に既存の物の見え方や価値観に疑念を抱かせてくれたのが演劇で、俳優だったんです。それが演劇じゃなくて絵だったら、絵をやってたかもしれません。

朴:疑念を抱いたのはどういうときですか?

瀬戸:高校生のとき、「趣味の演劇講座」というカルチャーセンターで演劇を始めたんです。当時は、高校で演劇やるなら、高校演劇しかないと思ってました。シャイだし、舞台上で声出したりとかできないと思ってた。演劇講座は、母親が、「こんなんあるで」って紹介してくれたんです。コミュニケーションをとるところから始まって、こういうのがあるんだと思った。自分がイメージしてた演劇とは違うものがたくさんあるとわかったんです。参加者は一番年下が自分、一番歳が近いのが23歳、一番上は70歳くらいでした。いろんな年齢の人と話しましたね。半年に一回発表会があったんですが、見せることが面白かったし、見られることもよかった。そういう経験がありました。

その前に、親が離婚しました。仲は良かったので、びっくりした。理由もわからなかった。今まで親の言うことや学校の規範を守って生きてきて、それがいいことだし正しいと思っていたけれど、離婚があったことで、絶対ないことなんてないとわかった。そういう出来事がなかったら、一度信じたものに疑いをもたないまま、言われた通りにやることが正しいという感じで生きていっただろうなと思う。信じていたものが崩れたことによって、何を根拠に信じてるんだろうということが考えられるようになったんです。演劇も高校演劇以外にたくさんあることがわかったし、人見知りなことを変えたいと思っていた。それで、演劇をやろうと思いました。それまで熱中できるものはなかった。演劇は熱中できました。それまでは熱中できることがなかったから、機械的に生きることができた。

【俳優の仕事とはなにか?】
朴:演劇はありていに言えば嘘でしかないので、信じることについて批判的に考えられるのがいいところですよね。それに、口だけでは作れない、実践が絶対に必要というところもいいなと思います。

瀬戸:俳優の喋る言葉が、ただ喋らされている言葉なら意味ないと思うんです。それなら枠組みから作りたい。それでこの前自分で作品を作りました。実感が全て、みたいなところがあります。自分が感じる、ということです。人の痛みはわからないし、自分の痛みもわかってもらえない。知って共有する、そばにいることしかできない。自分が本当に感じていることから枠組みを作っていきたいんです。自分が一人で作品を作るときは演劇っぽくないと思っています。身近にあるものに対して、言葉と行為を使って、普段とは違う側面を想起させるのが自分のパフォーマンスです。何を想起させるかは時々で違う。基本は言葉と行為しかありません。

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朴:演劇っぽいとはどういうことでしょうか?

瀬戸:自分の作品では演劇の一部分がうまくできないから、演劇じゃないと思っています。戯曲に基づいて台詞を喋ってる時って、広い言葉、なるべく大衆に向かった言葉を言いますよね。不特定多数の聴衆に言葉を投げかけていく感じで、誰にも言葉が届いていなんじゃないかと思うことがあります。広い場所でやるのも、難しいなと思います。それよりは、集まってくれた少ない人たちそれぞれに寄り添って向き合う作品が作れたらいいなと思っています。こういう感じは自分だけじゃなくて、速度という団体にもあると思います。不特定多数に向けたショーを作るのではなくて、自分の目の前にいる人たちのそばに寄り添って、その中の誰かにでも100%突き刺さればいいなと思っています。そういうことをパフォームするのが俳優であればいいなと思っています。

好きなアーティストがいるんですけど、その人は制作した音楽をYouTubeで配信してて、自分のための音楽をずっと作り続けていて、音源も全て無料で公開しています。常に、今生きてるってことをずっと作っています。再生回数も曲によってばらつきがあって、何万のも、数百のもあります。大衆向けでなくずっとやり続けていて、誰か一人にでも確実に突き刺さっているのがいいと思うんです。そういうことが俳優としてできないかな、と思っています。今生きてる人間を生きた状態で見られることに関しては、演劇が一番面白いと思ってます。それで、突き刺さったらいいな。そこから、所属じゃなくて、自分でも作るし、自分を素材として提供することもできる。演劇だけを専門的にやる職人じゃなく、一ジャンルとして、演出家とか、音楽家と同じ枠組みで俳優をやりたいと今思っています。だから自分を素材として捉える作品制作と提供する出演の両方をすると、俳優という言葉、ジャンルの印象が自分の中で前向きに変わるんじゃないかと思っています。

劇団に所属していても、演出家や美術家は個人で依頼されているときに自分の団体名をつけませんが、俳優は所属団体以外で出演する時に所属団体の冠がついています。それってなんだろう、俳優ってなんだろうと思うんです。速度の野村さんにプロフィールについて相談をしたときに、速度の「メンバー」でよくない?と言われました。所属じゃなくて対等にそこにいるということです。それは気づきとして大きかった。所属だと、フェアじゃないと思ってしまうんです。再演とかも、俳優から申し出ることはほとんどない。全員で作品を作っている意識でいるはずなのに。意識がずれてるのは俳優の方なんでしょうか。俳優が主宰で公演して、再演したいと演出家に言える関係性はいいなと思います。

フリーで俳優をやっていて思ったのは、出演すると企画や戯曲に疑いを入れることができないということです。疑わない代わりに責任を持たない気がしていました。上演がうまくいかなかったら、いや、自分で選んでないしと言える。それが昔は楽でした。でも、やっぱりフェアじゃない感じがどうも気持ち悪いし、自分の中でしっくりこないんです。

戯曲を丁寧に再現する現場に参加したことがあるんですが、することは再現で、上演前にジンクスのように同じものを食べたり決まったルーティーンを繰り返していく。人として生きたいから演劇やってるのに、やってることが人っぽくないなと思ってしまいました。そういう再現としての俳優の仕事に自分ものっかりかけていた。でもそれは違和感があって向いてないなと思いました。再現のために生活もずっと再現してるのはマシーンっぽくて怖いですし、自分もそういうことに簡単に目をつぶれてしまうんです。

【今作で考えていること】
朴:ありがとうございます。今作っている『わたしが観客であるとき』についても伺えますでしょうか?

瀬戸:今回の作品の始まりは、3月に上演した映像作品『景観と風景、その光景(ランドスケープとしての字幕)』です。実際の風景の中に字幕を置いて撮影し、そこに俳優が映り込んでいくという作品でした。例えば「歩く」という字幕を出したのですが、実際に通勤で通りかかった人たちの方が俳優の自分より「歩く」がうまかった。俳優が浮いたんです。自分が歩かなくても、誰かがやってくれている。なので、自分が出なくていいと思うようになりました。風景の中で歩いている人は、映像のフレームの中に入ると「歩く」という字幕を引き受ける。フレームを出たら、そのまま通勤してどこかに仕事に行く。あ、ここに人が生きてるんだなと実感できたんです。それがまず嬉しかった。「歩く」人たちはずっとその人として存在していました。

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俳優も、もっと「そこに生きている人」ということが感じられたらいいなと思いました。そのほうが、お客さんと向き合える気がする。人が舞台上で喋り始めたら、喋る言葉は全てフィクションになります。今回の作品『わたしが観客であるとき』で話すのは自分の記憶の言葉なので、自己開示するという意味で、「普段俳優やって生きている人」に見えてくる。お客さんも見るだけでなく、「一緒にいる」ことができる。一緒にいることで、他の人との距離や周りにもたくさん人がいるんだということが、感じられたらいいなと思っています。なるべくノイズを残すようにしたり、そのままいること、もなるべく目指したい。見え方のコントロールみたいな事はするけれど。

人がいるな、ということに安心できることが最近ないんです。ちょっと構えてしまう部分もある。コロナの影響もあって、道でものを落とした人がいたら、拾ってあげようと思うけど、拾って接触が起こることに気を使う。そのままほうっておいて、見なくなる。生活で起こるノイズをこうして削いでいくのは機械的だなと思います。そういうことを気にしつつも、助けたいし助けられたい。助けられたいというのが大きい(笑)

そのために、俳優だけどなるべく俳優っぽさをなくしていって、瀬戸沙門としてそこにいる、ということにしていきたい。瀬戸沙門として、来てくれたお客さんに向き合いたいと思います。ほぼノーガード状態みたいな感じ。話しかけられたら喋れるよ、みたいな。自分のそばにいる20人の中の1人でも多くの人に突き刺さりたい。自分のものであろうとなかろうと、言葉を身体にのせていく俳優でありたいと思っています。

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瀬戸 沙門
 劇団速度のメンバー。俳優・ダンサーとして京都を拠点に活動中。出演する作品毎に自身の実感と、観客から「そう見える」ことへの最適化の境界線を模索している。また個人でのパフォーマンス制作も行う。最近の作品では体のある点からある点までを数値として抽出し並べ、その数値を街の実在の物に当て嵌めることで舞台上にある体や空間に目の前にあるものとは違った見え方を付与するというパフォーマンスを発表。
 出演歴: 維新派「アマハラ」(2016) / 踊りに行くぜⅡ vol.7 山下残 振付作品「左京区民族舞踊」(2017) /劇団速度「冒した者」2019(2019)など
作品歴:「mom bless me」(2019)/「コンベックスの男」(2020) など。


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劇団速度『わたしが観客であるとき』

いつまでも
どこかへの途中にいるような
わたしたちのあいだに
紛れ込む言葉と行為

<劇場上演版> 2020年12月18日(金)~20日(日)
会場:京都芸術センター フリースペース

料金
一般 ¥ 3,000
U-25 ¥ 2,000
U-18 ¥ 無料

<LIVE配信版> 2020年 12 月 19 日 (土) 19:00 ~
劇場での上演に舞台上の新たな視点を加え、LIVE配信します。

料金
一律 ¥ 2,000 -

ご予約は以下より。
https://theatresokudo.stores.jp/

公演詳細 https://theatre-sokudo.jimdofree.com/new-1/

フライヤー 表



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