〈やまとことば〉の言霊
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わたしにはかみがいるし、あなたにもかみがいるはずだ。そして、このような日本語自体も神聖な言霊として成立していったのだが、それは縄文文化の展開する過程で成立したから、一万年以上にわたる。
だからこそ、こうした日本語すなわち〈やまとことば〉は、洪水の如き膨大な漢字文化に面しても、微動だにもしなかった。いかにも、私には神が居る/要るし、あなたにも神が居る/要るはずだ。
その〈やまとことば〉が連なっているのは、言葉としては縄文的であり、霊性としては日本的である。
たとえば法然上人の歌や弁栄聖者の歌にみられるような《すむ》という語は、おそらく原始縄文語であり、それこそ平仮名で《すむ》であろう。後の漢字文化との出会いによって、《住む》とか《澄む》とか《済む》とかに分解されていったにすぎないのであって、そのように分解される以前に、《住む》とか《澄む》とかを含意しながら、霊性の完成が《済む》、と歌われているようだ。
当方も、《居る》とか《要る》とかを含意して《いる》、と述べたのであって、そのように自負している。
[引用・参考文献]
SHYNAMITES 2006/2017/2019: the SHYNAMITES「自負」(2016&2017年制作、2019年note公開、引用元 https://note.com/the_shynamites/n/n15a54bdd3257
KAWANAMI 2013: 河波定昌上首法話「光明主義は日本的霊性の完成03」(大願寺、月刊誌『ひかり』2013年05月号所収、引用元 http://daiganji.or.jp/?p=1319)
[HPML mix]
「わたしにはかみがいるし、あなたにもかみがいるはずだ」(SHYNAMITES 2006/2017/2019)。そして、このような「日本語自体も」「神聖な言霊として」「成立していった」のだが、それは「縄文文化の展開」する過程で成立したから、「一万年以上にわたる」(KAWANAMI 2013)。
だからこそ、こうした「日本語」すなわち〈「やまとことば」〉は、「洪水」の如き「膨大な漢字文化」「に面しても」、「微動だにもし」なかった(KAWANAMI 2013)。いかにも、「私には神が居る/要るし、あなたにも神が居る/要るはずだ」(SHYNAMITES 2006/2017/2019)。
「その」〈「やまとことば」〉が「連なって」いるのは、「言葉」としては「縄文的」であり、「霊性として」は「日本的」である(KAWANAMI 2013)。
たとえば「法然上人」の歌や「弁栄聖者の」「歌にみられる」ような《「すむ」》という「語は」、おそらく「原始縄文語」であり、それこそ「平仮名」で《「すむ」》であろう(KAWANAMI 2013)。後の「漢字文化」と「の出会いによって」、《「住む」》とか《「澄む」》とか《「済む」》とか「に分解されていった」にすぎないのであって、そのように「分解」される「以前」に、《「住む」》とか《「澄む」》とか「を含意しながら」、「霊性の完成が」《「済む」》、と「歌われている」ようだ(KAWANAMI 2013)。
当方も、《「居る」》とか《「要る」》とかを含意して《「いる」》、と述べたのであって、そのように自負している(SHYNAMITES 2006/2017/2019)。
Produced by the SHYNAMITES,2021.
(ダーシャイノマイ/謝意乃舞 謹製)
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