音の鳴る屁をする

元カノの別れてから1年以上経ちました。
大きく愛し、大きな愛情をもらい、でも別れというものはあっけなく訪れました。

1年。
独りになったこの1年の間に、僕は家で音の鳴る屁をするようになりました。
彼女と過ごしていた4年ほどの間で一度も、音の鳴る屁なんてしたことがなかったのに。

僕の父は、家でよく音の鳴る屁をする人でした。
僕は幼い頃からそれを嫌悪する母を見て、音の鳴る屁というものは人を嫌悪させるものなのだと学び育ちました。

だから僕は家族の前で音の鳴る屁をしませんでした。
もちろん友達の前でも。
男同士なら、特に小学生だったら、友達の音の鳴る屁を聞いたらよく笑うものです。
僕も友達の音の鳴る屁でよく笑ったものでした。
でも僕はしませんでした。
腸にガスが溜まったら、人のいないところで、トイレで、さらにそこでも音を鳴らさないくらいの徹底ぶりで屁をしてきました。
僕の知り合いで、僕の屁の音を聞いた人はいないと思います。

でも僕は33歳の今、家で音の鳴る屁をするようになりました。

音の鳴る屁とは、おじさんをおじさんたらしめる証でもあるように思います。
僕個人の意見、いや、偏見かもしれません。
そう自らが思うということは、僕もおじさんへ一歩足を踏み入れたということなのかもしれません。

僕の思うおじさんの証のもう一つに、周囲を顧みないという習性もあります。
電車で足を広げて座るおじさん(玉袋が異様にデカいのかもしれないけど)、満員電車で足を投げ出し座るおじさん、そして、音の鳴る屁をするおじさん。
木造アパートに住んでいる、壁が薄いことを知っていながら音の鳴る屁をする僕は、もしかしたら周囲を顧みていないのかもしれません。
この先、僕も電車で足を広げたり投げ出したりして座る日が来てしまうのだろうか、という恐怖を感じます。


僕は大学に入学する18歳のときに実家を出て一人暮らしを始めました。
早生まれの3月18日が誕生日なので、18歳と2週間弱でスタートさせた一人暮らしでした。

8歳下の妹がつい先日、第一子を産みました。
僕が家を出たとき妹は10歳、小学4年に進級する春休みだったはず。
そんな幼かった妹が子供を産んだというのだから、そりゃあ僕もおじさんになっていても仕方がないとは思います。
妹は子を産み、僕は、音の鳴る屁をしている2024年です。


大学生になり、一人暮らしをはじめても僕は音の鳴る屁をしませんでした。

大学は本当につらかった。
高校のはじめにも似たような経験をしたのですが、当時は野球部という狭く強固なコミュニティがあったし、みんなが僕に優しかったこともあってすぐに打ち解けました。

でも大学は違いました。
はじめからずっと壁を感じていて、仲良くしてくれているようにみえるけど、それは"大人の付き合い"で、それに疲れてしまった僕は、必修科目を取り終えた大学2年の後期くらいからほとんど大学で言葉を発することはなくなっていき、"大人の付き合い"をしてくれる同級生たちを避けるようになりました。
あの"大人の付き合い"のとき、音の鳴る屁の一発でもしていたら、打ち解け合うことができていたのだろうか。

大学から徒歩1分のアパートに住んでいました。
友達と呼べる友達がいなかった僕は、毎年、秋になると、アパートの一室にまで漏れ聞こえる学祭の音で泣いていました。
きっと楽しいのでしょう、でもあの下手くそなアジカンのコピー。
毎年毎年誰かが「消してリライト」する秋。
あのとき、音の鳴る屁の一発でもかましていたら、僕の人生は今とは違ったのだろうか。

今でもシャワーを浴びながら思う日があります。


芸人を志し、上京してはじめた一人暮らしでも、音の鳴る屁なんてしませんでした。

2年が経って、芸人仲間とルームシェアをすることになったから、なおさら音の鳴る屁をする機会なんてなくなりました。

そのシェアハウスを出るきっかけになったのは冒頭に書いた彼女と同棲を始めたからだったので、さらにさらに音の鳴る屁をすることはなくなりました。


そうしているうちに芸人として名をあげることもできないまま三十路を超えて、年下の彼女からは冗談半分で「おじさん」と笑われ、そんな女性も僕のもとから去っていき、独りになっても最初のうちはしていなかったはずなのに、今はこんなにも音の鳴る屁を乱発しています。


まずい。
このままでは本当に「おじさん」になってしまう。


「おじさん」であるかどうかというのは、僕が思うに、ある程度の年齢までは自覚的であるか無自覚であるかが大事で、ある年齢からは「おじさん」であることを受け入れて生きていくことが自然なのだと思っています。
僕の年齢はまだ前者だと思っているのですが、僕はいま音の鳴る屁を乱発してしまっています。
「おじさん」たる証を、溜めずに、放ちたいと思った瞬間に放っています。

これはまずいです。
無自覚であるべきなのに、自らの行為で自らに自覚させようとしてしまっています。

僕はまだまだ若くいたい。
これは、20歳そこそこの若者に「いや、33とか普通におじさんじゃん」と言われても、「いやいや、まだまだ若いよ、おじさんは」と言い返したいほどに思っています。

だけど少し思います。
現状、音の鳴る屁をしてしまっている自分は、もう、心のどこかでは自分を「おじさん」と認めてしまっているのではないだろうか。
自分は「おじさん」じゃない、と抵抗するならば、括約筋をうまく動かして、あのときのように屁をすかしているんじゃないだろうか。
それが面倒になってしまっている、そのサボりこそが「おじさん」の証なのではないだろうか。

最近はそんなことを思いながら、毎朝ビタミンEのサプリメントを摂取しています。
それはせめてもの抵抗であり、自分はまだ「おじさん」にはならないと暗示をかける儀式でもあります。
心の大部分は、救いを求めているのです。


この世界に身を置いていると、時間の経過が普通の生活(悪い意味じゃない、僕らの生活が異常なまでに異常なだけ)よりも遅いように思います。
33歳、この年齢は「おじさん」なのでしょうか。
考えれば考えるほど分かりません。

でも、本当のおじさんは口を揃えて「まだまだ若いよ」と言います。
音の鳴る屁をこきながら。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?