21/07/12 あの日のようにピアスを開けたい

どうしてなのかずっと文章を書く気がしなかったのだが、今唐突に書いてみようと思ったから書く。

深夜の1時半、さっきまで布団の上で私は右耳の軟骨にピアスを開けたいと思っていた。スマホで方法を調べながら、はたと思い出したことがある。

17年前、私は初めてのピアスを開けた。
あけてくれたのは当時の彼氏だった。文字にすればなんてこともない出来事だが私にとってそれは、短い特別な日々の中にある宝物のような思い出だった。大人になる間にその宝物は記憶の彼方に完全に置き去りにされ、この日常には思い出すきっかけが存在しない。しかし人生には、そんなふうに時計の針が唐突に逆回転してしまうことが度々ある。

先月、家人への誕生日プレゼントに靴下を買いに行った。家人のことを思い浮かべて色とりどりの靴下の棚を眺めていたら、17年前のクリスマスが脈絡も無く脳裏に現れた。言うまでもなくそれは失われていた記憶である。17年前、初めての彼に私が選んだプレゼントもまた、靴下だったのだ。相手を想って何かを選ぶ時、17年という時を経ても私は同じ感性のもとに同じ思考の回路を辿っていたのだ。
何十年も深く眠っていた記憶が、前触れもなく呼び起こされる。それはまるで、世界を見下ろすような大きな存在が意図を持ってそうしているのだと思うしかないような体験で、何百万のピースから、失われたたった一つを見つけるような感慨と衝撃を伴う。それは時を行き来し、自己を知らせにやって来た。

現実をぼやかす思い出の霧を浴びることは楽しい。あの日のように、切実さと胸の高鳴りを持ってピアスを開けてもらうような出来事は、もうないだろう。甘い霧は夢の世界にまで及ぶ。そこはまさに完璧な「あのころ」で、二度と味わえるはずのない刻が鮮明に再現される。訪れるかも分からない、言葉を交わすその一瞬のために、長い時間を費やしたあのころ。
白濁した意識を通り抜け、淡い夢から鮮やかに色づく日常へと戻る。

自分のために生きるということは、自分だけの秘密を持つことかもしれない。
「My Life Without Me(邦題:死ぬまでにしたい10のこと)」はそういう映画だった。
ピアスを開けたいのも、愛する人とただ馴れ合っているような暮らしへの反骨精神みたいなものだ。自分を制するために秘密を欲する。そういう気持ちも、多分ある。
だからと言って、何かをするつもりはない。何かが起こったときに何を思うかなんて、どうせ分からないのだもの。ただの独りよがりなお遊びだ。