19/09/26 母について語る

日記がなかなか書けない。
文章を書くというのはとてもエネルギーを消費する。書いた日記は、翌日、noteにアップする前に読み返すようにしている。そこで修正があれば(100%ある)翌々日にもう一度読み見返すようにしているのだが、見返すたびに修正している。
そうこうしているうちにあっという間に数日が過ぎて日記が飛び飛びになるのだ。

日記を書くのは、母の影響だろう。主体的に始めた行いではないと思う。
家のあちこちにノートやメモの切れ端があった。それを見つけて開いては、母が書いたものを読んだ。物心ついた頃から家を出るまでずっとそういう環境だったので、紙の上に言葉が綴られることは私にとってとても自然なことだった。

日記を書くようになったのは小学5年生くらいの頃。転校生の男の子がやって来て、その子のことを好きになったのがきっかけだった。誰かを好きになることで、言葉が溢れてきたのだ。お気に入りのノートを買って、その日の出来事や、その瞬間の気分や願望を好きなように綴った。文章と同じくらいにイラストも描いた。毎日書いていたわけではないので、一年間でノートは2〜3冊。本もろくに読んでいない私が書く言葉は、私を楽しませるためだけにあった。それらはこのnoteを始めるまで続いた。

母は物書きで詩人で、どこにでも文章を残す人だった。母にとって書く行為は作品を作るようなモノではなく、意識的に継続させるようなモノでもなく、自分にとっての大切な行為として習慣化されたものだったのだと思う。誰かに読まれる可能性など気にも留めなていなかったのか(さすがにそれはないと思うけど).大雑把なO型気質のせいなのかは知らないが、幼い日から私はその紙切れを押し入れやカバンの中から見つけてきては読んだ。
後年の母は紙とペンではなく、スマホのメモアプリにテキストを残すようになった。母にとって、言葉を残す媒体は何でも良かったようだ。
母の死後、想像していたよりも大量の日記やエッセイを見つけた。驚いたのは、それが10代か20代の頃のものであったことだ。50年前の手記を母は嫁入りする時に持参し、その後も処分することなく手元に置いていたのである。
これは私とは正反対の行いで、私はというと、小学生の頃の書き物(漫画も含む)は高校に上がる前に誰にも知られず自分の手で処分した。

今私は初めて、誰かに読まれる文章を書こうとしている。何も残したくなかった私が「遺すこと」を意識して、言葉を磨いている。これも母の影響なんだろう。
結局、子にとって母親はどこまでも偉大なのだ。残そうとしてくれたものも、残そうとしなかったものも、みんな受け取ることのできた私は幸せなのだろう。