2019/07/12 哀しみの在りか

つくづく思う。生きるために「哀しみ」は必要なんだなって。

昨日は家人におやすみを言わなかった。
それだけのことが、心の底の方に押し隠してある剥き出しの塊を露わにさせてしまう。  

一人になっていよいよどうしようもなくなり、家人との交換日記に想いを綴った。簡潔に、でも確実に、欲求に従った。そのうち涙が止まらなくなり、手を止めて自分の書いた家人への言葉を傍観していた。
別れに向かっているようで怖い。けれど、怖さと同じくらいの諦めがある。

家人のことだけでなく、今日一日をどう過ごすべきかすら分からなくなってしまい、とりあえず洗濯機に放置されたままの洗濯物を干しにベランダへ向かった。

人の心の移りがわりは解せない場合も多いが、こればっかりは責められても仕方がないと思う。いや、そうは思っていないのかもしれないが、文章にするととにかく自分の酷さが際立ってくる。どういうことかと言うと、家族の洗濯物を干しているうちに急に胸がすっとしてしまったのだ。
しかもスッキリしたら今度は何でも乗り越えられる気がしてきて、さっき書いた文章は、家人に見せないようにしようとまで思った。どういうことだろう。
ついさっきまで、家人を私と同じくらい傷つけたいと願っていたくせに、洗濯物を干しただけで、そんなことはしたくないと思っている。
こんな女が相手なのだから、家人の気苦労は計り知れない。とにかく私は、未解決なまま手付かずの問題をどうにかするよりも、家人を愛しているという確信が欲しかったらしい。で、自分の書き出した言葉によって、その確信は湧いてきたのだ。
このまま家人に話をせず解決できるならそうしたい。
病気で辛い思いをしている家人を追い詰めずに済ませられるのならそうしたい。

洗濯物を干し終えてもう一度日記を読み返してみた。
さっきの自信は少しばかり縮んでしまっていたが、結局日記は見せないことにした。
押し入れに隠し、代わりに何の変哲も無い手紙を書いてハートに折ってテーブルに置いた。  

この日記を見せなければならないくらい自分の心が追い詰められる日は、確実に来るんだと思う。問題は解決していないから。それに、それくらいに私は弱いし心が荒れている。荒れ放題だ。
けれどその日まで、私も家人に寄り添う努力をしたい。自分が望むことをもう少し叶えられる自分になりたい。家人にばかり求める自分に嫌気がさしていることも、解決すべき問題の一つなのだ。
まずは自分から。
祈りにも近いほど微かな想いだが、今日はそれで自分を受け入れられそうだ。