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転職した文系おじさんからのお誘い


「これ、絶対やったほうがいいっすよ」

って、わたし、プレゼンとか提案ミーティングの最後によく言うんですが、普段からヘラヘラしているせいもあってか、たいていの場合「またまた〜」とか「お!直球できましたねー?」とか言われて、まじめには受け取ってもらえないまま終わります。

でもね、これ、本人はすごく本気で言ってるんです。だって提案する以上は「絶対にやったほうが(クライアントさんの)ためになるはずだ!」って信じられる案になるまで(自分なりには)ちゃんと考えて提案してるから。

そりゃ、まぁ、若い頃は上司に言われてイヤイヤやってる案件とか、担当者から個人的に嫌がらせを受けてたとかで「こんなもんでいっかー」的なやっつけ提案をしていたこともあるにはあります。

でも師匠のしつけが厳しかったおかげと、わりと早い(30代の前半、外資にいて昇進していろいろ責任が直撃する立場になった直後に一度会社がすごく傾いたことがあって死ぬかと思った)段階から、自分が働いてる会社の経営=アカウント維持=クライアントさんの商売がうまくいかないと次がない、の流れを意識するようになっていたこともあって、たいていかなり全力で「やったほうがいいです」のレベルまで突き詰めて考えてこられたんじゃないかなぁと思っています(おかげさまで今日までゴハンが食べられてます)。

でもまぁそれでも「絶対やったほうがいいっすよ」の言葉自体は、冒頭のような反応で受け止められることが多いので、一緒にプレゼン行ってた同僚とか若い子たちからは「あぁ、このおっさんまたこれ言ってるよたいしてウケもしないのにしょうがねーなーばーかばーか」ぐらいに思われてたかもしれません。(井原さん(仮名)荒木くん(実名)ぼくの肝臓の数値が下がったらいちどゆっくり聞かせてください)


書くのが嫌い。大嫌い。

ところでわたし、書くのが嫌いなんですね。大嫌いといってもいいぐらい。

っていうと「え、オマエこのあいだ”書くことでメシを食ってきた”とか”好きなことをして生きていきたいから転職”とか言ってたよな?」って思われる方もいらっしゃるかもしれないのですが、別に「とても書きたい!」「だから書く仕事に就くのだ、就いたのだ!」とはそもそも言ってないのであしからず。

どうでもいいかもしれませんが、私が一番好きなのは「読む」ことで、そのつぎに来るのが「読んだことについて考える」こと。で、そこから気の合うだれかとそのことについて話ができて盛り上がれたら最高で、それをだれかが書いてくれたらもうそれでばっちりなのですが、そうじゃないときは仕方がないから自分で書くしかない、ということでこれまで自分で(コピーライター専業だった頃からそのスタンスで)書いてきました。

たとえば前回のnoteの記事は「仕事とかはたらき方に悩んだときに、これまで自分が体験したこと触れたものをベースに考えを解きほぐす触媒になるような文章があったらいいなぁ」と思ったのを、もちろんそんな都合のいい文章はない(街場にころがってるおっさんの話きいてわざわざ書いてくれる奇特な人はいない)ので、自分で書いたというわけですね。


書いておくこと。残しておくこと。

ふーん、じゃぁそれでいいじゃん。嫌いなことが済んでよかったね。で、なんでまた性懲りもなくまた書いてるの?といわれるとそれは、思いがけず、尊敬する古賀史健さん(あの古賀史健さんですよ。「嫌われる勇気」の古賀さんですよ。うちの本棚に2冊もある「ミライの授業」の古賀さんですよ)からまさかのこんなツイートをいただいたからなのでした。


というわけで思いもよらぬ光栄なツイートに奮い立った拍子に前々から考えていたことについてもこれからの自分のためにきちんと書き残しておいたほうがよいかもなぁと思ったのと、そもそもやっぱり誰も書いてはくれないのでこれはもう自分で書くしかないよなぁということで、またnoteに向かっている次第なのです。

と、ここまでを読み返してるあいだにpiece of cakeのCXO深津貴之さん(お会いしたこともないのですが、わたしが勝手に日本タカユキ界の最高峰と呼んでいる)が「noteでは冒頭に何が書かれているのかが明示されている文章のほうがいい」「1,000文字前後の記事が好まれる」的なことをおっしゃていたのを思い出したのですが、今回はどちらの要件も全く満たしてないUI悪い文章ですねごめんなさい。


というわけで「書く」について書いておきます。

一応それを道具に20年以上メシを食ってきた経験から考えるに、言葉には「現実を引き寄せる力がある」と思います。『ゲド戦記』の世界ではないですが、言葉はその言葉にこめられた意図をかなえるようにはたらきますし、もっと言えばこめられた要素をそのまま忠実に現実に反映するようにはたらきます。(ちょっとオカルティックに聞こてえるかもしれませんが、言葉をつかって商売してきた方ならこの感覚、わかっていただけるんじゃないかなぁと思います。)

なので、「自分の頭の良さをひけらかしたい」という意図が少しでも含まれた言葉はその人の頭の良さをひけらかすようにはたらいちゃうので受け取る人の心を動かすことはないですし、発する人の「ま、その場限りの笑いでもいいか」という考えがちらりとでも混ざってしまった言葉は、やっぱりそのとおりのはたらきしかしてくれません。(ちなみに広告の言葉は”欲望”と”発する人が相手を軽んじる気持ち”がとてもとても混入しやすいのでものすごく黒魔術化と有毒物質化が起こりやすい超取り扱い注意案件なのですがそのことについてはいつか機会があったら書きます。)

で、加えていうと、言葉がはたらくとき「現実が言葉を引き寄せる」ということはたぶん(というかわたしの経験的には絶対)なくて、ほぼ必ず「言葉のほうが現実を引き寄せる」ので、現実と言葉とのあいだに乖離があるときは、そのゆがみやひずみを埋めるために現実のほうでなにかが壊れたり傷ついたりします。(ファウストが「時よ止まれ」といったときその言葉は消えずに現実のほうに悲劇が起こるというのはお話の中だけのことではなく、見えない何かが司る世界の法則というものがそういう風にできているからだとわたしは考えています。)

で、「書く」というのは、「言う」よりもっとはっきりと「言葉を残す」ということなので、「言う」よりいっそう「見えない何かが司る世界の法則の発動」を促します。とするならば、自分がなにかを「書く」ことで、自分が立っているこの現実の場にものすごいゆがみをもたらしてしまったり、誰かを傷つけてしまったり、自分の心を壊してしまったりする可能性もとても高くなるということでもあるわけです。

「書く」とはつまり、自分が自分の人生に対してどれほど真剣なのか、を世界の法則を司る見えない何かに対して宣誓すること。

だからわたしは書くことが怖いし、そのことを思うと暗澹たる気持ちになって、なるべく書かずに生きていきたいなぁとか思ってしまったりします。で、これはわたしの推測なのですが、SNSを情報をインプットする窓としてだけ使っていて自分からは発信したくないなぁ、という方はたぶんこのこと(=言葉を発することで生じる世界の法則に対する宣誓の発動)を鋭敏に感じ取ってその一線を超えないようにしているんじゃないのかなぁとも思います。


だからこそ書いたほうがいい。

でもその一方で最近のわたしは「だからこそもっともっと積極的にたくさんの言葉を発したほうがいいのかもなぁ」とも思ったりするようになっています。

だって、自分から世界の法則にはたらきかけないと、動きも活気もない(それはそれで静かでいいのかもしれないけれどやっぱり)さみしい感じの人生が続いちゃうかもしれなくて、それってあんまり楽しくないんじゃないかなぁと。

と思ったら、note界のスターDNAパブリッシングの末吉宏臣編集長がこんなツイートをされていらっしゃいました。

さすがだなぁと思います。

で、これに乗っからせていただくと、このときとてもたいせつなのは、飾ったり格好つけたりするのではなく「こうなったらいいなぁ」と自分が思うほうに向かって現実を引き寄せていくような言葉を出す、ということなのではなかろうか、と。

自分が生きる時間を、人生を、どうしたいのか、どうするのか、を

自分が思うほうへ、願うかたちへ、描くすがたへ。

面倒くさいとか怖いとかいって逃げないで、一度言葉にしたからにはどれほど長くかかりそうでも自分がやるのだやり遂げるのだという覚悟を決めて。

自分の発する言葉が、自分が描くゴールという現実を引き寄せてくれると信じながら。(最近、ちょっと遠くのゴールに向かって歩きはじめてしまったので向こうから近づいてくれたらありがたいし)

もしかすると、逆にゴールを遠ざける可能性もあるのだけれど、それならそれでそのぶん長く楽しめるからいいじゃないか、なんて、ときには開き直りながら。


長くなったついでに、

あ、で、最後にひとつあなたにお伝えしたくって、noteじゃなくていいし(失礼!)ブログじゃなくていいし、SNSじゃなくてもいいとは思うのですが(ちなみにわたし仕事用の文章は万年筆で手書きしてます)とにかくなんでもいいので、これを読んでくださったあなたは自分でもなにか書いてみたほうが絶対いいと思います(で、そのときnoteはやっぱり書きやすいのでおすすめです)

だってあなたは、こんなおっさんの長々としたタワゴトをここまで読めちゃうぐらい「読むこと」を楽しむ才能がある方だから。

で、なんで「読む才能」をお持ちのあなたに「書くこと」をおすすめするのかっていうと、自分で書いてみると(「俺様って文才あるなぁ!俺様のやることってホントに最高!」的な自分しか見えないよっぽどのバカじゃない限り)書くことのむずかしさ、たいへんさがすごくよくわかるようになるから。

そうすると、文章に対する感度が高まって、世の中にあるありとあらゆる文章が本当におもしろく、味わい深く感じられるようになるので、結果「読む」のがすごく楽しくなるんです。

そのうちに自分の好みに合うような文章が向こうから浮き上がって飛び込んできたりとか、

その一行を思い出すだけで涙が出てきちゃったりするぐらい誰かの文章が「自分のもの」になったりとか、

書けば書くほど、楽しい文章、楽しめる言葉との出会いが増えていきます。保証します。(もしもあなたが「書く人」になったら、甘めの評価で読んでくださるはずなのでこの長々しい文章だっていまよりも多少は楽しく読んでいただけるんじゃないかと思いますよ)

だから、自分の人生にひとつでも多くの「楽しめるもの」があったほうがいいなぁと感じてるあなたは、どんなに短くてもいいし、一回限りでもいいし、ツイッターの一言でもいいのでとにかくいますぐ、

絶対、書いたほうがいいっすよ

という、文系おじさんからのお誘いでした。











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