rest in peace

いつの頃からかおそらく「享受」あるいは「享楽」といった感覚が乏しくなった気がする。それを証明する出来事が最近は多くある。ミュージシャン含めた数々の有名人の訃報だ。

幾多の悲しみの言葉をSNS等で拝見するが、その悲しみの感覚は自分には発生していない。あるいは発生していても感じる事は出来ていない。

そういった訃報に触れた時、亡くなったミュージシャンの曲やパフォーマンスはよく知っていたりなんなら感銘を受けた事もあったりするが、なんというか歴史上の人物が亡くなったような感覚を感じている。
例えていうなら徳川家康が亡くなった事に悲しみは感じないが、だがしかし徳川家康は偉大だという敬意のような感覚を持つのだ。
(ちなみに近しい人やコミュニケーションのある人、あった人ならおそらく大地の深くまで悲しくなると思う)

大多数の方々が抱いた悲しみを形に残しているのを見て、自分はなんと冷たい人間だろうかというような気持ちも持たなくはないが、あんまりそうとも思わない。

むしろ命や人生は有限であり、その事に対しての畏れの感覚を強く感じる。

自分とてそうなのだ。

その畏れを感じるたびに少しばかりの焦りを感じる。
命が尽き、人生を終えるまでに、どんなものをどんなふうにどこまで残していけるのだろうか。そんな焦りだ。焦っても仕方ないのだが、その事もあって純粋に「享受」や「享楽」といった行為が出来なくなっているのかもしれない。

なにかしらから受け取る行為や感覚は常にあるのだが、それは楽しむものではなく、アウトプットに向けてのインプットとして受け取るようになっている。それを「享受」という感覚で受け取ることが出来たらもっと違ったアウトプットが出来得るのかもしれないが、まあそれはおそらく今後もない。

なんだか因果な話であるが、そうなってしまったものは仕方がないし、だからこそ今のような表現活動が出来ているようにも思う。

以上、自分の中の感情を整理するために書いてみたがあまり整理出来なかったな。困ったものだ。

この状況で言えることといえば、
「素晴らしかったですありがとう」「ゆっくりお休みください」
以上です。

good night
rest in peace

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