見出し画像

ナンセンスは肩身が狭い

匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)という言葉が好きである。学生時代からだろうか、確か、高校の漢文の授業の時に、「匹夫」という言葉を知った。何しろ匹夫である。ヒップと片仮名にしても軽い感じの音感が素敵である。

ちなみに匹夫匹婦を辞書で引くと、

身分の低い男と女。 また、教養がなく、道理をわきまえない者たちのこと。 封建的な身分制度下で使われた言葉。 ▽「匹夫」は身分の低い男、教養のない男、「匹婦」は身分の低い、道理をわきまえない女の意で、平凡なつまらぬ男女のことをいう。

goo辞書

なるほど、こういう辞書の定義が出てくる。教養がなく、道理をわきまえない者たちのことらしいが、うーむ、そんな事を言ったら、世の中、匹夫匹婦だらけじゃないかと思う。

大学の頃に、確か学園祭だっただろうか、私が属していたサークルで何か喫茶店のような出店を出すことになった。

小さなポスターを作ったのだが、そこで私はこの匹夫匹婦を突然思い出して、

匹夫匹婦も元気イッパイ!

とポスターの割と目立つところに書いたのだけれど、このキャッチコピーを読んで反応した学生は皆無だったらしい。

それから、少し文言を変えて、

匹夫匹婦も是非オッケーです

にしてみたが、これでもダメだった。学生時代のちょっとした挫折の一つとして今でも覚えている。

そうやってクリエイターというのは、自分自身のセンスが、周りの人間社会に受け入れられるものなのかどうか勉強していくのだろう。

そして、社会に出て産業社会の場で自分と全然異なる個性や人格の人々、別の価値観に揉まれれば、いやでも客観性のようなものは身についていく。

しかし、せっかく身につけた客観性が、クリエイターとして本来持っていた純粋なそのひと独自の感性というものを、摩滅しはしないだろうかという懸念はある。

だから、自分としては、壁に向かってでも、「匹夫!」、「匹夫!」と言い続けなければならないと思っている。

それにしてもである。この匹夫匹婦にしてもそうだが、普段の会話においても、匹夫匹婦の話を持ち出しただけで、いや、単語を発した瞬間に、意味を理解するようなナンセンスの持ち主というのはおそらく、100万人に1人ぐらいだなと思っている。

誰かと知り合ってしばらくして、

「ヒップ、ヒップ!」

と言うだけで、向こうも、ああ、この人は同志なんだな!と言う事を合点するのか、すぐにお互いに打ち解けてしまうこともあれば、

一方、「ヒップ、ヒップ!」など言おうものなら、

「はあ?何ですかヒップって?」

と言って、全く理解してくれない人がいて(いや、それが人類のほとんどである)、そのあと、場を取り繕ったり、意味の説明をしなければならない事に難儀する。

この辺のナンセンスの感覚というのは不思議な事に、人種や国籍に関係が無いようである。筆者も外国暮らしをしていたり、様々な人種と会話をする機会があるが、やはり、一般的なユーモアしか理解しない人もいれば、ごく稀に、ナンセンスを解する人もいて、自分自身がこの世界に一人きりではなかった事を再発見し、ほっと安堵するのである。

だが、繰り返すが、多くの人はユーモアの方を好む。言葉によって説明がつくのがユーモアだろうし、ユーモアに対して笑う方がなぜか高尚な気になる。

また、ボケに対して即座にツッコミを入れていくようなことや、会話において瞬時に気の利いた返しを言うようなことの方が、頭が良いように見える。

あるいは、言っている人が自分の機知を見せびらかして、集団の中で自分の身を守るようなこともあるだろう。

あとは、ユーモアというのは万人受けする事もあって、感性が違っていたとしても、誰にでも理解されうる。人間同士が円滑なコミュニケーションをする上で便利な道具なんだろうなと思う。

そうであるから、いよいよナンセンスというのは世間でその居場所をなくしてしまい、肩身の狭い思いをせざるを得なくなるのだ。

そうは言いつつも、この世に少しばかりはナンセンスを解する人はいるので、私はそういう人に遭遇したら、一気にナンセンスを発露するのではなくて、少しずつ小出しにして様子を見るようにしている。

ここまでは分かってくれたかとか、ああ、この人はこちらの方のナンセンスは無いみたいだなと、反応を見ながら調整していく。

そうではなく、不幸にも周りが「普通の感性の人」ばかりのこともあるから、そうした場合、自分のナンセンスにはフタをして、あたかもユーモアしか分からないような人を偽装するようにしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?