高校陸上振り返り①

僕の高校生活を一番彩ってくれたのは間違いなく陸上競技部での経験だと思う。自分の限界を更新していく喜びを感じることができたし、学べることも多かった。今就活も終わって時間もできたということで、改めて深く振り返ってみようと思った。




最初に高校1年生時代。


なんだかんだで1番濃かったのはこの1年だと思う。というのもそれまでと比べた時の変化が圧倒的に1番激しい一年だったからだ。


実は高校に入学した当初、陸上は適当にこなすつもりだった。そのわけは、入学した高校が勉学に力を入れている高校で、かなり周りのレベルが高いと聞かされていたからである。そのうえ偶然英数クラスという名の選抜クラスに滑り込んでしまった。散々この高校は勉強が大変だと中学時代に刷り込まれた(塾や学校で)せいで、いわゆるガリ勉にならないとやっていけないと思っていたのだ。

あと、僕が入学するまでのこの高校の陸上部は、あまり活動が盛んではなく、ほぼ同好会のような感じで練習が行われているという噂があった。


ということもあって、入学当初の僕は地獄の勉強の片手間に、運動不足解消程度のランニングを陸上部に入ってやろうと計画していたのだ。


陸上部に入るにあたって力を入れたことがあった。友達の勧誘である笑


幼稚園の頃から仲が良く、同じ高校に進学した友人が、それまで続けてきたバスケ部には入らないということを耳にした僕は、必死に陸上部に勧誘した。せっかく部活に入るなら最初から気心が知れているやつがいる方がやりやすいと思って笑


必死の勧誘の末、ハンドボール部の沼にハマりそうになっていた所を引き抜き、陸上部に入部する決心をさせることに成功した。しかも加えて元々親交があった別の2人も勧誘に成功した。


友達3人と一緒に気楽な部活でハッピーライフや〜なんて思いながら部活動登録の教室に向かった。


そこで待ち受けていたのは、、、、



「先生が来たからには、これまでのお遊びみたいなんは許さんからな。」



そう。この年からガチタイプの顧問の先生に変わったのである。


教室で話を聞いている先輩部員の顔が引き攣っていた。そして僕の顔も多分引き攣っていた。そして、「陸上部入ったら練習死ぬほどゆるいけん勉強とかと余裕で両立できるよ」という甘い誘い文句で勧誘した友人に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


そうこうしているうちに事務的な手続きを行い、先輩に部のグループLINEに入れてもらった。そこでまず目の当たりにしたのは先輩の退会ラッシュだった。「すまない」や、「ほんと申し訳ないです」なんて言いながら、それまでのぬるま湯環境が激変する事に耐えられなかった先輩たちが続々と抜けていった。多分半分くらい辞めたと思う笑




ついに部活動がスタートした。残った先輩も含め全員が新入生といった感じだろうか。とにかく当初は特に辛いことが多かった。まず、当たり前だが練習がきつい笑
元々中学時代大して真面目に練習していなかった上に、半年以上のブランクがあったからだ。持久系のメニューはついていけないし、柔軟性も無いため基礎練習でフォームを再三指摘されても上手く出来ないし、何よりウエイトが地獄だった。


ヒョロガリの僕はそれまでウエイトというものを全く知らなかったし、陸上選手とは無縁だと思っていた。ただ、真剣に短距離に取り組む上でウエイトは必須なのであった。あまりに筋力がなかった僕は、何もおもりをつけていないシャフトという棒(20kg)を持ち上げて肩に乗せることもできなかった。部員にはバカにされたし、顧問の先生も呆れていた。笑


そして、競技以前の問題で叱られることが多かった。集合時間に遅れる、声が出ていない、練習日誌を出さないなど。特に1年生の頃は先生もピリピリしていることが多かった。本当はユーモアがあって生徒思いの先生なのだが、当時は環境を変えるのに必死だったのだろう。練習を中止して部員だけで話し合いを行うことを命じられたこともあった。



激動の毎日を過ごしているうちに、初めての総体を迎えた。部員の層が薄いせいで1年生ながら100m走、走り幅跳び、リレーに出場する事になった。


当たり前だが結果はボロボロだった。個人としてまず100mは12.5。中学時代とほとんど変わっていない。下から数えた方が余裕で早いタイムである。幅跳びも5mすら届かない。リレーも最下位。
チーム全体でも入賞したのは中学時代から実績を残していた長距離の同期1人だけだった。


正直ここまで厳しい世界かと思った。そして所詮ガリ勉集団はガチ勢達には手も足も出ないのだと悲観的になっていた。
しかし、顧問はまだ若いチーム、ここからがスタートだというスタンスを示しており、半分それに僕は白けていた。



この総体の後に行われた打ち上げは今でも印象に残っているくらい楽しかった。ようやく、それまでなんとなく他人行儀だったチームが1つにまっとまって仲良くなる良いきっかけだったような気がする。




総体が終わり、改めてリスタートである。


気持ちを新たに取り組むべきなのだが、大きな壁が立ちはだかった。学業だ。


日々のしんどい部活動を言い訳にして、勉強が明らかに疎かになっていた。この学校は、定期テストよりも校内学力テスト(通称学テ)がとても重視されており、もはやこの学テの順位が学内のヒエラルキーと言っても過言でなかった。しょっちゅうお前この前の学テ何位?という会話が耳に入っていた記憶がある。


この学力テストを軽視していた上、なんだかんだ自分の学力を過信していた僕(当初のガリ勉にならなきゃモードはどこへやら...)は、気楽に第一回校内学力テストを受けた。


結果はクラス42人中38位だった。


中学までは勉強で苦労したことは全くなく、クラスでも秀才のような扱いを受けることが多かったことで、知らぬ間に蓄積されてきたプライドという名のプラモデルが、木っ端微塵に破壊された。

自分が得意だと思っていた数学なんてケツから2番目だった。



この時が高校時代1番どん底だったと言える。それまで自信があった勉強で落ちこぼれ、部活でもボロボロ、そしてクラスにろくに友達がいない。


これを機に自分がガリ勉学校にいることを自覚して、部活だけでなく勉強にも真剣に取り組むようになった。勉強も部活も底を早い段階で体感できたのは良かったのかも知れなかった。



夏に入っても苦しい時期が続いた。きついメニューに加えて、厳しい暑さが襲いかかってくる。河川敷で行われるポイント練習の日は、水分をいくら体に入れてもそばから汗となって干からびるような感覚だった。
ショッキングな出来事もあった。短距離の同期で圧倒的に1番実力のあった部員が周りの低レベルな環境に嫌気がさしたのか退部してしまった。この時点でチームで100m走11秒台で走れる選手が消滅し、よりチームの格は下がったように感じた。


また、当時の僕が大嫌いだったのが他校との合同練習である。顧問の先生が他校の強豪の顧問と親交があることもあって、よく格上のチームとの合同練習が組まれた。当然ついていけないし、足を引っ張ってしまうため劣等感に苛まれる。


ただこの頃から何くそという反骨精神が芽生え始めていたのかも知れなかった。


夏休みの大会も大して良い記録が出ず、夏休みが明けた。


まず立ちはだかったのは2回目の学力テスト。入学して2回目の勉強の関の山だ。ある程度勉強を頑張ったこともあり、クラス内で真ん中より少し下程度に位置付くことが出来た。


また、その後すぐに文化祭があり、その準備の過程でクラスメイト達とは打ち解けられ、気の許せる友人もできた。


陸上以外の不安材料がようやく消えたのが嬉しかったのを覚えている。


文化祭の後の体育祭では、初夏に退部した元エースに70m走で完敗した。この頃から自分の中の反骨精神を明らかに実感するようになっていた。
「とっくに辞めたやつにボロ負けする俺情けね」という感情でいっぱいだったとともに翌年は負けないことを決意した。



暑さも和らぐ初秋、新人戦が行われた。これがこの年のターニングポイントである。



暑さが和らいだこともあり、なんとなく動きは良くなってるなという実感はあった。


100m走のタイムが11秒76まで上がっていた。


ここで初めて顧問の先生の指導力に気付かされた。毎日嫌というほどやってきたドリル、ミニハードルで正しい走りの型が形成され、ウエイトトレーニングで走りに力強さが加わり、セット走で後半にバテない持久力が蓄積されてきていたのだった。


ようやく陸上を真剣に取り組む醍醐味を感じた。


そして季節は流れ、冬になり冬季練習がスタートした。それまでにない過酷なメニューが多く、勘弁して欲しかった。50 100 150 200 250 300 250 200 150 100 50mを走るΣ走や、300m10本なんていうのも印象深い。
謎の吐き気に襲われる時期もあったがどうにか乗り越え、季節は春に近づいていった。




続く







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