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イランからカナダへ(手記翻訳)

 Maryam Ishaniさんという方の難民体験談を翻訳してみました。(原文:https://www.facebook.com/maryam.ishani.1/posts/10153702051130992?fref=nf&pnref=story)

 いま「ヨーロッパの難民危機」として、日々、数多くのニュースが報道されていますが、その裏には、こうした一人一人、一家族ごとの物語があるのだと思います。

 私たちの共感力が、家族、友人、知人の範囲に留まってしまうことは致し方ないことです。一方で、SNSでこんなにも繋がりを持つことができる世界になった今日、記事やブログなどを通じて、自分にとっての『知人』を増やすこともまた可能なことです。実際に会って友だちになる力には及ばないかもしれませんが、共感の範囲を広げるという点で、希望がもてる環境になっているのではないでしょうか。

 Maryamさんは手記に書かれているように、1980年代のイラン・イラク戦争後、自国イランからパキスタンの砂漠を通ってカナダに渡られた方です。私は直接には彼女のことを知りませんが、共通の知人を通して繋がりがあったことから、Facebook上で体験談を目にしました。そして読む度に涙が溢れ、他人事には思えなくなってしまったのです。

 彼女の手記を通して、私自身がそうであったように、少しでも多くの方に難民の現状に思いを馳せてもらうことができたならと願いました。翻訳は個人的に行ったものなので、あくまでも参考までに読んでいただき、できれば英語の原文をあわせてお読みいただけたらと思います(原文は「公開」設定で投稿されていますので、どなたでもご覧いただけます)。

 なお、翻訳の責任は私にありますので、誤記・誤訳などありましたら、どうぞお気軽にお知らせください。拙訳ですが、何らかの形で皆様の心に残るものになったら幸いです。

 ***以下、翻訳文***

 約30年前のこと。私の父母は小さな鞄に荷物をまとめ、妹と私に一着の服を着せ、そして危険極まりない旅に出た。二人の子どもと年老いた親を連れての旅――両親がその旅を成し遂げたことに、今でも信じられない思いでいる。その頃、イラン・イラク戦争は二年目に突入。すでに化学兵器が使用されており、戦闘は私が生まれた街アフワズのまさに真上で行われていた。アラブ系スンニ派[住民が大多数を占める]地域であるアフワズは、サダム・フセインによってイラクに属すると考えられていたのだ。

 緊迫した夜が続いていた。都市全体の強制停電が行われ、ろうそくの明かりも窓から決して漏れることのないよう、カーテンがしっかりとテープで固定された。標的を探して頭上を飛ぶイラク軍に居場所を突き止められないようにするためだった。私たちの隣人家族五人は、就寝中の爆撃で殺された。

 それは、イラン(イスラム)革命から4年が経ち、私たちが信仰するバハイ教の教徒たちが次々に逮捕、処刑されていた頃でもあった。両親はともに、政府の書類――イスラム教徒でありバハイ教徒ではないことを示し、新たなイスラム共和国への忠誠を誓うもの――に署名することを拒んだ。それはすなわち職を失うということであり、両親は他の多くの人々同様、今後訪れるであろう最悪の事態を恐れた。

 そんな折、逮捕が差し迫っていることをいち早く警告してくれた方がいた。ある警察官の夫人で、医師である母が出産を手助けした人だった。出発までにかけられる時間は、私たちにはほとんど残されていなかった。

 母は私たちに服を着せた。そして、持ち運べるだけの宝石を掴んだ。道中、賄賂として渡すためだ。妹と私がおもちゃを持っていくことはできなかった。私たちは、ただの日帰り旅行中であるように見せかけなければならなかったのだ。しかし実際には、密入国請負業者の計らいのもとバルチスタン[イラン南東部からパキスタン南西部にまたがる地帯]の砂漠を通り抜けてパキスタンへ入国するという、何日にもわたる旅路。最終目標は、イギリスへの亡命申請が可能である英連邦加盟国インドに辿り着くことだった。

 このルートでは、砂漠で密入国請負業者に置き去りにされたり、厳しい自然環境にさらされたりして、多くの人が命を落としていた。私たちは83歳の祖父を連れていた。スターリン体制下、その思想ゆえに7年ものあいだグラーグ[旧ソ連強制収容所]での生活を余儀なくされた祖父は、長い旅路を前にして弱った身体を抱えていた。

 私たちは徒歩で移動し、密入国請負業者が連れていたヤギや家畜とともにテントで眠った。指示のあった場合には、横になり、毛布の下に隠れることを学んだ。ある晩私たちは、妹を両親の隣に寝かせる形で平床トラックの後部で息を殺して横たわり、それから銃弾が飛び交うなか、国境を駆け抜けた。最後の試みだった。妹が泣き叫び、誰かが黙るように言っていたのを覚えている。私たちは運が良かった。そこでは多くの人々に悲運が待ち受けていた。

 パキスタンに着くと、他の数家族とともに隠れ家に入れられた。その家はひどく汚れており、すぐさま全員が掃除を始めた。そこで冷蔵庫を動かしたときに見た光景…何百というゴキブリが私たちの持ち物の上を覆うようにして這い出てきたのを見たとき、私の母は――今日まで私の知る限り最も頑健で毅然とした女性だが――声を上げて泣いたのだった。その後、母はすぐさま店へ行き、50ドルを費やし妹と私のためにふたつの人形を買った。それは所持金のほぼ四分の一にもあたる金額だった。私たちの身体そのものがイランから出国することだけでなく、私たちの精神が旅を生き抜くことがいかに大切か。そのことを母は知っていたのだと、後に母自身から聞いた。私は自分の人形にナグメ(歌)、妹は彼女の人形にナヴァ(メロディ)と名付けた。

 しかしこの時点では、まだ私たちは安全ではなかった。パキスタン当局に見つかれば、逮捕され、イランに送還されることになるのだ。私たちは暑さのなかマットレスの上に横たわり、待った。糖分と水分補給のために、安く手に入るスイカを食べ、そして待ち続けた。当時、カナダが世界で最も多くの難民を受け入れている国であったことは、私たちにとって幸運なことだった。カナダ高等弁務団は、私たちがインド経由でカナダのバンクーバー島の都市ビクトリアへ向かえるよう、書類の手続きを早急に進めてくれたのだ。

 この頃、妹と私は不思議な話を聞くようになった――妖精(フェアリー)たちの噂だ。私はフェリーという言葉をたくさん耳にした。私はフェリーとは翼のある類のものだろうと確信していた。

 ブリティッシュ・エアウェイズの便が飛び立つと、前列の座席に座っていた女性二人が妹と私を喜ばせようと、ビンディ・シール[インドの装飾用ステッカー]をくれた。私は両親、特に父が、この数か月で初めて、ドキドキする不安もビクビクする恐れも抱いていないことを感じ取ることができた。

 バンクーバーに到着すると、一人の女性が私たちを待っていた。カナダ人女性――そのときはフランという名前だと知らなかったのだが――で、ボランティアとして私たちを出迎えに来てくれていた。赤い髪とそばかすが印象的だった。その人は、私のために「B.C.、ビクトリア、アップル・ジョー」と足に刺繍のある布製のピエロを、妹のためにアルファベットのタイルの入った箱を持ってきてくれていた。

 そのピエロは私の大のお気に入りになった。横になると泣き叫び立ち上がるとひどい笑い声をあげる、パキスタンのカラチで母が買ってくれた人形よりも気に入ってしまった。私たちは、島に向かうフェリーに乗り込んだ。自分たちの家を見つけるまで住まわせてもらうことになった、フランの家に行くために。私は、フェリーに翼のないことにも気づいていなかった。今でも手元にそのときの写真がある。屋外のデッキに座って太平洋を眺めている、気だるそうな私。

 島に着いてから数週間後、パキスタンを通り抜ける途上で私がマラリアに感染していたことがわかった。私の容体は重症で、皆が疲労と考えていたものはもっとずっと深刻なものだった。両親とフランが慌てて病院に駆け込み、助けを求めていたとき、母の肩に何度も吐いていたのを覚えている。私はピエロのアップル・ジョーをしっかりと握りしめていた。ロイヤル・コロンビアン病院での治療中ずっと、アップル・ジョーは私の手のなかにいた。

 看護婦さんたちが私の暇つぶしにと、私にとって初めての英語の文字を教えに来てくれたときも、アップル・ジョーは私の拳のなかだった。私は英語のフレーズを書き連ねた。ひとつよく覚えている文は、「私が夜中にベッドから出ることはありません」というものだ。アップル・ジョーを握りしめていた手が少し緩んだのは、退院にあたって看護婦さんから小さなクマのぬいぐるみをもらったときだった。どなたかから寄付されたもので、私は自分とアップル・ジョーの傍らに置いてそれを大事にした。母がアップル・ジョーのために小さな寝袋を縫ってくれたので、ひとり病院で過ごす夜にもアップル・ジョーが付き添ってくれていた。私が他にも持つことを許されていたのは、初めて習う英単語を何頁にもわたって記入していたノートだった。

 私は毎日、何百万というシリアの人々が待機していることを思い、身震いしている。
病気の幼きと老いを抱え、長い道のり、飢え、疲弊、渇きに直面し、耐え忍んでいるアフガニスタン、その他の国の人々。そして私は猛烈に自分たちが幸運であったことを実感する。カナダへ辿り着き、助けられ、温かく迎えられたこと。それも迅速に。外務職員の方々から弁護士、空港で私たちを迎えてくれた女性、医療専門家まで、手を差し伸べてくれたすべての人たち。私たちの話す言葉がわからなくても、迅速に対応すること、命だけでなく心を救うことがいかに意味のある大切なことかを理解していた人たちだった。

 カナダ到着から数年後、市民権の宣誓を行う順番が私の家族に回ってきて、祖父を除く全員が立ち上がった。祖父は、立ち上がることができなかった。ロシアでの戦争を生き延び、スターリン体制下のグラーグ、戦火のイラン、政治的迫害、そして砂漠横断という危険な旅をもかいくぐってきた祖父。しかしカナダに着いたとき、祖父は衰弱のあまり、自分の足で立つことができなくなっていた。

 そこで立ち上がったのは裁判官のほうだった。裁判官席のある上段を下り、祖父のところへ歩み寄った。裁判官が祖父の襟元に楓の葉をピンで留めるのを、私は見つめていた。まるで昨日のことのように。そして覚えている限りそのとき初めて、私はアップル・ジョーを手にしていなかった。留守番のアップル・ジョーはクマのぬいぐるみと一緒だった。

***以上、翻訳文***

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