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留守番

 「このハーブ、枯れるな。これもだ。あぁ…これはワシも育ててたが、最近死んじまった」

 心許ない限りである。これは階下に住む大家さんに、我らの留守中、手塩にかけて育てているハーブ(一部野菜)の面倒を見てくれるよう頼んだときに言われた言葉だ。

 83歳、クシャミの音がめちゃくちゃ大きいじいさん。その音で、階下にいることが確認できるほどだ。あまりの大きさに以前は「なんてこった。勢いで入れ歯が取れたり、下手すると下手するんじゃないか」と心配のような余計なお世話のようなことを思っていた。どうやら全く問題ないようなので、最近はその音を聞くと安心するようになった。父のクシャミに通ずるものがあるのも一因かもしれない。

 大きいのはクシャミだけではない。声も凄まじく大きい。キプロス人は全体的に大声で話す傾向にあるように見受けられるが、年をとって耳が若干遠いことも手伝っているんだろう(ちなみに耳毛もすごい)。近所の人や階上(我々と同じ階)に住む娘さんと話す声、電話越しに話す声、誰かと言い争う声…聴こうとしなくても聞こえてくる。

 もじゃもじゃの眉毛が垂れ下がる先には、大きく可愛らしい目。時たまその目の奥が笑うことがあるが、普段はほとんど笑っていない。そういえば、ワハハと大声出して笑っているところも見たことがない。元外科医。ギリシャで勉強をしたと言っていた。数年前に奥様を皮膚がんで亡くしている。まだ若く、とても急だったという。

 じいさんの元には、住み込みで働くスリランカ人のお手伝いさんがいる。掃除・洗濯・食事と身の回りのことはすべてやってくれているようで、娘のように大事にしている。実の娘とは確執があるようだが。お手伝いさん自身もいろいろと問題を抱えていたが(聴かなくても聞こえちゃうんである)、じいさん、笑わない目の奥にも深い愛情がある。いちど信頼した人のことは守り通すのだ。血縁よりも信頼関係−−そんなことを感じさせる、酸いも甘いも噛み分けた大人の男なのである。

 じいさんの名言がある。"Every woman needs a lover." ブラヴォーである。じいさん、でかした。"Every man..."なら(特に自身が男性なら)誰もが言うところだが、これはなかなか言われないことだ。じいさんはわかっている。いつ悟ったのかは明らかでないが、女性の微妙なところがわかっているんである。

 ところが悟りじいさん、冒頭のようなことを平気で言うのだ。「ここ(駐車場の軒下)で君のハーブが生き残れるか見極めたいから、運び終わったらまた呼んでくれ。」ちょっと水やりを頼んだだけなのに、この真摯な向き合い方には感動した。と同時に「生き残れる?ん??」…渦巻く疑問符。さもスクスクとはいかないことを前提にしているような言い方ではないか。

 その後、我が鉢植たちに審判が下った。

 生き残ると判断されたのは、ローズマリーと芽が出てきたジャガイモ。二種類のバジルはなんとか持つかもしれないが、二種のミント、オレガノ、タイムは、じいさんの経験上ダメだと判定づけられた。

 てか、じいさん、我々が留守にするの、10日ぽっきりなんですけど…。確かに40度を超える日があり、とにかく日差しが強く、生きとし生けるものすべて(サボテンやトカゲを除く)にとって辛い真夏の日々である。しかし二週間弱で枯れ果てる運命のハーブって、どんだけ弱いと思われてるの。あるいは、その手でどんだけハーブをダメにしてきたんだ、じいさん。

 愛猫を初めてペットホテルに預けたときのように感極まって泣きはしなかったが(愛猫はペットホテル滞在が最大級に嫌いだったようなので、その後預けることはなかったが。家で留守番、ペットシッターの方に世話を頼んでいた)、じいさんの言葉のおかげで少し不安のよぎる束の間の別れである。タイム鉢には愛しのカマちゃん(カマキリ)もいることだし、休暇明けの再会を祈るばかりだ。

 なお、カマちゃんに関しては、じいさんがこんな一言をくれた。「ワシは〈そいつら〉を見つけるとすぐさま殺しちゃうのさ。」

 私の話振りから、カマちゃんを可愛がってることは伝わったようだが(じいさんの目の奥が笑っていたので)、カマちゃんがカマキリであると正しく認識されたかどうかは定かでない。なぜなら「そいつはマルチカラーかね?」と尋ねられたからである。カメレオンか何かと誤解されてるだろうか。いずれにせよ、じいさん側には小動物を生かしておくつもりはさらさらないようなんである。

 カマちゃん、どうか得意の擬態を最大限に発揮して、できればそんなに成長することなしに、静かに暮らしていてください。間違っても、大家のじいさんが水やりに近づいたとき、カマを振り上げて対抗しようとしてはいけない。それは自らを危険に陥れる行為です(この場合)。

 私は楽天家なので、すべての植物と昆虫が自らの身を守って留守番できることを信じている。そして、じいさんの予言は当てにならないことを証明してやりたい。預言は受け容れても、予言は信用しない、よ。ではでは、ごきげんよう〜。

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