太郎さんのこと

徳島crowbarのオーナー、HUSHPUPPYのドラムの太郎さんが11月6日に亡くなりました。生前、実際にお話しできたのは数回程、親しい人達からは「お前になにがわかるねん」と言われるかもしれないが、ずっと徳島でバンドしてきた人間として太郎さんはどんな存在だったのかどうしても文字にしておきたかったのでここに記しておきます。偏見たっぷりでツッコミどころ多いと思いますがその辺は酒でも飲みながらスルーしてください。

 遡ること20年前、2001年ぐらいかな。徳島で生まれ育ち、高校二年生の僕は機会あって学外でバンドを組み出しました。その時のメンバーの初瀬くん(現beyond kichen)、タケト(現half-life)からHUSHPUPPYを教えてもらいました。当時の徳島はハードコア、メロコア全盛の時期でライブハウスはまだヤンチャな人達の溜まり場的な要素が多分にあって、ライブハウスは悪の権化みたいな感じでした。【当時の先輩方に聴くと半分正解で半分誤解と濁されます笑】
そんな中でも医者をやりながらバンド活動しておりドラムの人は叩きながらボーカルもしているらしい。興味津々でMDに入れてもらった音源を聞いてみるとものすごくよい!「何にも飾ってない音楽」ってゆう言葉が合ってるのかわからんけども、スリーピースの最低限の音数で泣ける美メロをあのコーラスワークでやられたら当時「TVで流れている音楽はなんか嫌」と思い出した思春期後期の自分にハマらないわけがありませんでした。その時からHUSHPUPPYは僕の憧れとなりました。当時、まだインターネットも普及し出したばかりでブログなんてものもなくバンドHPも魔法のアイランドすらなかった時代。HUSHPUPPYのHPには太郎さんのエッセイ的なテキストメモがいっぱい掲載されていて高三の僕はそれが更新されるのが楽しみでいつも親のパソコンを使ってアクセスしていました。太郎さんの書く文章に惹きつけられてほんとに頭の良い人なんやなぁ。と思っていました。
 受験シーズンになり僕は元々県外の大学を視野に入れてたんですが、担任の先生の勧めで新設されたばかりの徳島大学の医学部保健学科の存在を知りました。医学部なんて全く視野に入ってなかったけれど、この大学の軽音楽部にHUSHPUPPYが在籍していることを知っていた僕は医学部の憧れというよりHUSHPUPPYの憧れの方が強く、ここに入れば県外に行かずとも徳島で納得いくまでバンドできるんじゃないかという思いになりました。(…当時付き合っていた彼女も徳島の大学希望だったので遠距離したくないという気持ちもあった)
そんなこんなで運良くその春に徳島大学に入学することになります。

この時期に出たHUSHPUPPYの1st.
一曲目の「現実」でぶちのめされたなぁ。。

 大学に入学して早速、軽音学部に入部しました。当時はまだ24時間部室使いたい放題でホワイトボードに練習時間をバンド毎に書いていくんですが遅い深夜枠の時間帯にいつも「ハッシュ」「F→C」の二バンドが書いてありました。(おそらく太郎さんのご好意でF→C large selectionも当時部室を利用していた。)

※F→C large selection (〜2005)
2000年代初頭の徳島を代表するバンド。未だにF→Cを超えるゲキエモバンドはいない。と思っている。大好き【エモは人それぞれ】

この人達の枠は絶対使ってはいけない。そんな暗黙の了解が部内であったように思います笑
でも徳島の二大バンドの表記が軒を貫ねていたことがどこか誇らしかったのも事実。
 当時、もうすでに太郎さんは卒業しており当時の六年生の人達が新入生だったときの部長を太郎さんがしてたのかな?
今と違ってなんでもありの時代だったんで打ち上げなどお酒の席での太郎さん達はそれはもうすごかったらしく皆OB会には決死の覚悟でいってました笑
そんなこんなで自分が三回生になったぐらいの時からホワイトボードからハッシュの文字がなくなってきました。太郎さんがライブハウスを作ったのです。誤解を恐れずにいいますが当時は徳島で音楽を真剣にやるならジッターバグ【現clubGRINDHOUSE】を拠点に活動する。これ以外の選択肢はありませんでした。でも音楽を真剣にやるっていうのは色んなスタイルがあってそれら全てを一つのライブハウスで抱えきる事って難しく、その受け皿を増やしてくれたのが銀座crowbarであり、太郎さんだったように思います。crowbarがオープンした当時太郎さんがモギリをしていた時代、初めてちゃんとご挨拶させてもらいました。礼儀もなにもわかっていない僕に笑顔で丁寧に対応してくれたのを覚えています。(でもデキル人特有の「目の奥は笑っていなく、全部見透かされているような感覚」はありました。)

 大学を卒業してからも四星球をやってた時はあまりcrowbarでライブをすることは少なかったけれどHAMKやThirsty Chordsを見にcrowbarに行き、皆で酒を飲みながら拳を突き立てるのが最高に楽しかったし、これは今も変わらないけれど殺戮大明神の竹松さんや凱Negaのジルさん、銃座のマツノさん等、先輩方の話をバーカウンターでビールを飲ませてもらいながら聴くのが大好きでした。(90年代〜2000年代初頭の徳島バンドシーンの話は大好物)もちろんTHE春夏秋冬でも数えきれないほどライブさせてもらってます。  

ismさんのインスタで太郎さんは皆が好きに集まって楽しんでもらえる場所が欲しくてcrowbarを作ったと書いていました。 

こうやって文字にして思い返してみると本当に太郎さんの思惑どうりに楽しませてもらっています。
 去年のサーキットフェス「若者達」だったと思うけど、Gremlinのライブを見てcrowbarの血というかHUSHPUPPYから脈々と受け継がれてきた精神みたいなのを感じてそれがすごく嬉しくて打ち上げでメンバーに感動した事を伝えたことを思い出しました。

同期の荒瀬が亡くなってもう何年やろうか。未だにふらっと現れるんちゃうんかと思う時があります。それは今でもプレイリストから流れてくるHAMKの音楽がそう思わしてくれるんでしょう。

阿波踊りの時にHUSHPUPPYを見るためだけにダッシュでcrowbarに行ったこともあった。HUSHPUPPYを見よるときはいつもキッズに戻れました。もう直接生でライブは見えないけれど、じじいになってもあのワクワクしながらライブハウスに行く気持ちは忘れんようにします。

太郎さんありがとう!




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