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さまよふ魂〜絵画編その六

オルセー美術館はかつては駅舎で、大きなかまぼこ屋根の下に10線以上のホームが敷かれていた。2月革命の1848年から第一次世界大戦1914年までの作品はここオルセーに収められ、それ以前の作品はルーブル、それ以降はポンピドゥセンターにと時代分けされている。さすがは芸術の都パリである。

暗い色調の三人の農婦が腰をかがめて何かを拾っている。その背景には、うず高く積まれた地主の小麦の山。旧約聖書には“穀物を収穫するときは刈り尽くすことなく、貧しき者のために残すべし”とある。「落穂拾い」は寡黙で謙虚なミレー渾身の一作である。彼はノルマンディーの農家で生まれパリで活動していた。1848年の2月革命の政治的混乱やコレラの流行を嫌いパリ郊外のフォンテヌブローの森の入口にあるバルビゾン村に移住し、クールベと共に写実主義の中心的存在となった。印象派の土壌は彼らによってここバルビゾンで作り上げられていった。農民の悲惨な生活を真摯に描いたミレーはプロテスタンティズムのアメリカ人や侘び寂び感性が豊かな日本人に特に人気が高くどの作品もじんわり心に沁みる。

同じ写実主義でも「草上の昼食」マネの超問題作。元祖チャタレー夫人か阿部定かというべき作品で、当時のパリを驚きと批判の渦に巻き込んだ。当時、裸婦画はモチーフとして女神のみが許されていて、欲情をあおるリアルな人間のヌードは完全にタブーであった。しかも草上のビクニックでめかし込んだ紳士の前に鎮座するは、その脱いだ衣装からまぎれもなく娼婦である。当時のパリは急激な経済発展によって貧富の差が激しくなり人口の170万人のうち娼婦は少なくとも10万人はいたという。マネはそれまでキリスト教観で隠されてきた、貧しさの中で生きる女性の現実を描いた。1863年のサロンは当然落選し、そして大炎上。人々から嘲笑を受けその後も長く不遇の時代が続いた。しかし後にモネやセザンヌがこの草上の昼食を模写しそれが印象派の勃興につながっていく。モネにマネされるマネは偉大なりや。

「いつまでそのヌードをボーッと観ておるのじゃ!もう良いか?」あの皺くちゃ爺さんだ。「もう少し待ってください。後少しだけ時間をください」

<続く>

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