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Hotter than July in ジャカルタ

パンデミックで迎えた2021年のジャカルタ。5月の断食月明けのレバラン連休も帰省禁止で何とか乗り切って少し皆ゆるんできた雰囲気はあった。そこにデルタ変異株が入り込んできた。

7月2日突然運転手から携帯に「Selamat sore,maaf saya positif swab test(こんにちわ、私は抗原検査で陽性でした)」のメッセージ。運転手は翌日のPCR検査もやはり陽性で、自分も完全なる濃厚接触者。ここから“暑い7月の揺れる心の旅”が始まった。

ちょうどその日からPPKMと呼ばれる新型コロナ再拡大への緊急活動制限がジャカルタも位置するジャワ島とバリ島に発令された。いわゆるロックダウンで病院や銀行やスーパーマーケットなど生活必需品以外の店は全て閉店。レストラン、床屋、マッサージ、映画館はもちろんゴルフ場も閉鎖された。会社オフィースは基本100%在宅勤務。エネルギー、建設業、輸出製造業など特別認定企業は50%の稼働をかろうじて許された。「PPKMって何の略?」何度も聞いたがインドネシア語の長ったらしい言葉で忘れた。ただ「Pelan Pelan Kita Mati (ゆっくりゆっくり私達は死んでゆく)」の略だというジョークだけは覚えた。

5月頃までは何となく日本人はコロナで死なない伝説があって、よくわかり合った人達の会食やゴルフは普通にやっていた。それまで在住日本人のお年寄りが2名亡くなったという話は噂で聞いていた。しかし7月に入り気がつくと日本人死亡が10人を超えたと大使館ニュースが流れ、瞬く間に増えてやがて20人に近づこうとしていた。

7月5日、関係会社の良く知っているインドネシア人部長の訃報が届いた。ちょうど1週間前のオンライン会議で元気そうに話していたのに、急に発症し5日目に病院待ちでレムデシビルなどの特効薬も手に入らず自宅で息を引き取ったという。43歳の働き盛りで、いつもの彼のがっちりと力強い握手を思い出す。哀悼の涙と共にヒタヒタと危険が迫ってくるのを感じた。

7月11日ジャカルタ隣接の大都市ブカシ県知事48歳がコロナで亡くなった。その1週間前には故スカルノ初代大統領の次女もコロナでジャカルタの病院で亡くなっていた。大手企業の40歳と50歳代の日本人駐在員も2名亡くなったと古参の友人から聞いた。これらはお金を出しても高度治療が受けられる病院に入れない、あるいは入院出来ても手遅れだったことを意味する。次第に不安が広がっていった。
実は自分は6月末に商工会の企業斡旋の中国製シノファームのワクチンを2回接種済みである。しかし政府が接種を進めている中国製シノバックと同様、従来型不活性化ワクチンで欧米のmRNAと比較して半分ぐらいの効力しかないと言われている。事実、自分の職場の最近のデーターで49人の発症者の内14人は2回接種済みでそのうち2名は入院している。また、マスコミの情報では既にシノバックのワクチンを2回接種している医療関係者が6月から200名以上感染後死亡しており、ワクチン神話も揺らいでいる。

7月13日茂木外相が突然、コロナ禍の日本人をインドネシアから救出するために特別機を手配したという日本のニュースが流れた。正確には民間企業が貸し切った民間機を政府が規制していたI日2千人の入国制限をこの臨時便を枠外として認めた、というのが事実であった。その日の夕方、食料の買い出しから帰るとマンションのロビーで大声で何やら叫びながら酸素ボンベが数本慌ただしくエレベーターに運び込まれていた。全国で酸素が不足し、病院に入れない自宅看護の一般の人々も買い集め、酸素争奪のパニック状態に陥っていた。そして、このマンションもいよいよヤバくなってきた。

ジャカルタも含め大都市の病床は完全に埋まり、病院の廊下で車椅子や床で伏している患者の映像が流れ、全国で新規感染者は連日4万人を超え、死者も2000人を超えた。日本でもこのインドネシアの医療崩壊の現状をまるで、“彼の国はかくも悲惨な状況であり、それに比ぶれば我が国はまだマシ” と言わんばかりに伝えている。当然家内や家族、友人は「大丈夫か、政府救出便で脱出できそうか?」とLineの嵐。言われなくともジリジリと本人は焦ってる。幸い会社から帰国を希望する者は速やかに一時退去を認める、とのお達し。一刻も早くこの危険な状況から逃げねば危ないと自分の気持ちは帰国に傾いている。しかし一方で自分だけ安全な日本に逃げても、インドネシア人の仲間は当然ここに残っているわけで後ろ髪も引かれる。最近の日本の災害報道で流れる「少しでも命が助かる可能性が高い行動を起こしてください」の警告が耳に残る。しかし同僚の日本人に避難するかと尋ねると「迷っているが一旦帰ると戻り難く、今自分が必要とされているので留まる」と皆口をそろえたように残留の意思表示。自分だけでも避難帰国するべきか?大いに悩んだ。

7月14日朝起きると、ふと反戦フォーク歌手、加川良の「教訓I」のサビのフレーズが頭の中に繰り返し流れだした『青くなって尻込みなさい 逃げなさい 隠れなさい』
葛藤の中で自分だけは助かるんだと決意し、会社に帰国の希望を伝えて、フライト確定を待った。フライトの予定は7月24日であった。しかしちょうど東京オリンピックの入国者のピークと重なったうえに、色々な手違いで自分のフライトが一旦キャンセルになった。次のフライトは多分1週間後以降になると伝えられた。相変わらず日本のメディアはインドネシアの墓地で防護服に身を包んだ人々が棺を埋める姿を映し出している。しかしこの3週間の切迫した精神がふと疲れで緩んだのか、焦って右往左往する自分が可哀想に思えてきた。再びPCR検査をして、空港での煩雑な手続きをして、飛行機内で息を潜め、日本に入国後も政府指定ホテルで10日間の隔離軟禁生活を続けている自分の姿を冷静に眺めているもう一人の自分がいた。今まで起こったことは現実ではあるが何故か急に我に返った気がした。
結局フライトの延長は断りジャカルタに留まることを決めた。

8月2日、新規感染者もようやくピークを越して4万人を切り、死者数も1000人台になってきた。ジャカルタの病床も90%を切り始めICUも少し空いてきた。未だ緊急活動制限下で自宅勤務を続けているが週末に街に出てみた。外出制限で車は少ないがそのおかげで、かつて見たことがないジャカルタの青い空に白い雲が広がっている。GoJekバイク便の連中はアゴマスクで相変わらず暇そうに喋り続けている。モノ売りの母親の隣で汚れた服の痩せた少年が何かつぶやきながらオモチャで遊んでいる。その横で警官もアクビをしながら突っ立っている。工事現場の労働者も汗をかき目をぎらつかせて重そうな機材を運んでいる。見上げれば建築中の高層ビルも以前見た時よりも何十メートルか伸びている。やがて訪れる復活の日を信じてジャカルタの街は静かにゆっくりと、しかし確実に一歩ずつ動き出していた。

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