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山田洋次監督を通して読み解く東アジア
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本日、日本を代表するフィルムメーカー・山田洋次監督について紹介します。
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山田洋次監督のプロフィルについて紹介します。
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山田洋次監督は、1931年に大阪府出身。1954年、東京大学法学部卒。
同年、助監督として松竹入社。1961年『二階の他人』で監督デビューしました。
『男はつらいよ』シリーズなど人情劇を発表し、現役でキネマ旬報ベストテンに最多入賞した監督です。日本映画界の第一人者で、世界の映画界にも広く知らされています。
山田監督といえば、『男はつらいよ』シリーズですね。日本に留学する前から、中国で吹き替え版の『男はつらいよ』を5-6作品見ました。
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山田洋次監督の活躍を知らない方はいないでしょう。しかし戦前、山田洋次少年は、満州鉄道の技師だった父親の仕事の関係で、満州(中国東北部)で約10年間、暮らした経験があります。つまり、山田洋次監督は引き揚げ者でもあります。その体験について、山田洋次監督は雑誌や著書、そしてウェブサイトでなどで紹介しています。
例えば、山田洋次監督は、友人である児童文学者の早乙女勝元さんを追悼するメッセージのなかに、引揚の体験について触れています。
作家・早乙女勝元(さおとめ・かつもと)氏が10日、老衰のため埼玉県内の病院で死去した。90歳。東京都出身。東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)名誉館長もつとめた。
30歳頃には、山田洋次監督に東京・葛飾区柴又を案内。映画「男はつらいよ」シリーズの舞台となるきっかけをつくった人物としても知られた。
山田監督は「1931年、彼は東京の下町に生まれて、かの下町大空襲の中を必死に生きのびた。同じ年に生まれて旧満州で育ったぼくは引揚者としてリュックひとつで日本に戻った。戦後の日本について、平和と戦争について語り合えるかけがえのない友人を失ったことを、心から淋しく思います」と追悼した。(出典:「報知新聞社」のウェブサイト)
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