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「境界」の越え方についての断想

ご訪問ありがとうございます。

本日、「境界」の越え方について考えてみたいと思います。                                            
専攻分野の一つが東アジア地域研究であることも、日頃から「境界」についてよく考えています。

コロナ禍の前は、約15年間、日本でのフィールドワークのほか、少なくとも、毎年1回ずつ中国と韓国へのフィールドワークを実施しています。


「境界」と言えば、すぐ「国境」を思いつく方が多いと思われますが、長年のフィールドワークを実施し、「国境」を越えるためには、もっと小さい単位の境界、たとえば、区の堺、市の堺、県の堺を越える習慣を身に付く必要があるのではないかと思います。

今、北海道の札幌市に暮らしており、住んでいるのは、ちょうど清田区と豊平区、そして白石区と厚別区が堺になっている地域です。




ここで、私が強調しているのは、「境界」を越えるのは、ただの観光や見物ではなくありません。文化人類学の視点を持ち出す必要もなく、「境界」を越える度に、「自文化」と「異文化」について、少しずつ理解が深まることができます。


「境界」を越える度にひらめきを得ることができます。

『日本語と中国語の「境界」についての断想』新年あけましておめでとうございます。テツジンです。2021年を見送り、2022年を迎えました。私は、この年の変わり目も「境界」と言いました。 一つ一つの「境界…

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参考文献

西川長夫『増補 国境の越え方:国民国家論序説』平凡社、2001年。

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