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【読書雑感】『ライフワークの思想』を読む(2)フィナーレの思想

昨日に続き、英文学者の外山滋比古氏の『ライフワークの思想』を読んだ感想について書きます。

本日は、「フィナーレの思想」について書いた箇所を読んだ感想です。

外山氏によれば、ライフワークという言葉は、この頃簡単に使われているが、なるほどここにライフワークがあると仰ぎ見るような仕事が案外少ないです。それで、ライフワークを気軽に口にすることより、これを人生において実現するためにもっと努力すべきだと辛口で書いています。

この節でも、外山氏は、“カクテルと地酒”の比喩で筆を進めています。



今の日本人の知識やものの考え方は、だいたいにおいてカクテル式である。よさそうな思想や技術を他人から借りてくる。24頁


われわれが文化とか学問とか科学技術とかいっているきわめて多くのものが、実は舶来の酒を台にしたカクテルにほかならない場合が多い。せっかく外国からスコッチやブランデーが入ってきているのに、わざわざ下手な地酒をつくるのは間尺に合わないことだと秀才は思い、やがて、カクテルが唯一のアイコールだと思い込んでしまう。25頁


酒の比喩での話がまだ続いています。


ビールをつくるには麦が必要だ。どんなに醸造の経験があっても、麦がなければビールはできない。人生の酒に必要なのは経験である。この経験を本などを読んで代用したのでは、カクテルになってしまう。やはり、その人が毎日生きて積んだ経験というものを土台にしなけばならない。26-27頁


酒の比喩のほか、ライフワークを考えるのに、外山氏は、マラソンを例として書いています。


人生にも、マラソンと同じ折り返し点を設けたい。われわれの一生の歩みを、仮に平均から八十年として、十歳から四十五歳までと、四十六歳から八十歳まで、どちらも日数に直すと約一万二千余日になる。これがマラソンでいう往路と復路で、一万二千日むこうへ走ったら一万二千日こちらへ還ってくる。29頁

たしかに前へ走ることは進歩だ。だが、折り返し点ではそれまでの価値観をひっくり返して、反対側に走ることがすなわち前へ進むことになる。マラソンレースでなら小学生にもわかる理屈だが、人生のマラソンにおいては、折り返し点を過ぎたら、今までと逆の方向に走るということが、プラスなのだという発想の転換に達するのは生やさしいことではない。30頁


私は40代後半になり、人生のマラソンの折り返し点を過ぎていますので、著者の哲学的な言葉が至宝です。

著者は辛口で書いています。


エリートが齢をとるとだんだんつまらない人になってくるのは、彼らが一筋の道を折り返しなしに走っているからだろう。30頁

著者は辛口だけを書くわけではなく、心理医師のように適切なアドバイスも書いています。


前半の四十五歳くらいまでは、なるべく個性的に、批判的に、そして自分の力で生きてゆくのが、その人間を伸ばす力となるが、折り返し点をまわった人間は、もう少し小さな自分を捨て、いかにして大きな常識をとり込んでゆくかを考える。ときには純粋でないものがあっても、それがコクのある酒には必要なものではないかと気がつくようになる。30頁


”余生”というが、われわれのマラソンには、余生などというのがあってはならない。隠居を考える人生は碁や将棋でいう“終盤の粘り”に欠ける。もうだいたい勝負はついてしまった、と早いところで勝負を投げてしまうのが、どこが人生を達観しているようで、“いさぎよさ”といったようなもので把えられているのではないか。やはりわれわれは、最後の最後まで、このレース、勝負というものを捨ててはいけない。あと何目か石を置けば、この死んでいるように見える石が生きかえるかもしれない。それをその石を置きそびれたために、それまでのたくさんの仕事をのたれた死にさせることがあるかもしれない。 32頁


ライフワークとは、それまでバラバラになっていた断片につながりを与えて、ある有機的に統一にもたらしてゆくひとつの奇跡。個人の奇跡を行うことにほかならない。34頁


外山氏は2020年に96歳で亡くなりました。生前は膨大の著書を書き残し、特に代表作『思考の整理学』は、なんと驚異の126刷、263万部を突破しました。ゆるぎないフィナーレの思想で、奇跡を行い続けました。


参考文献

・外山滋比古『思考の整理学』ちくま文庫、1986年。


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