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記憶の場を訪ねる旅(1)博物館網走監獄を訪ねて

ご訪問ありがとうございます。本日から「記憶の場を訪ねる旅」というシリーズを不定期的に書いて行きます。

このシリーズは、「ニッポン魅力発見の旅」シリーズと関連性はありますが、若干違いもあります。

端的に言えば、少し特殊の場所を訪ねる旅のシリーズです。

このシリーズの1回目は、博物館網走監獄について書きます。

博物館網走監獄外の様子

     

本題に入る前に、まず、キーワードである「記憶の場」について紹介します。

記憶の概念が人文社会科学で重要視されています。それは、フランスの歴史学者である ピエール・ノラが率いるプロジェクト『記憶の場』の役割が大きいと考えられます。

ピエール・ノラはその著書『記憶の場(第 1 巻)』のなかで、記憶の場は「場」という語 のもつ3つの意味――物質的な場、象徴的な場、そして機能としての場――においての場であるといえる。また、程度は異なれ、そのいずれの属性をも持っている。たとえば、文書館は純粋に物質的な場に思われるが、想像によって象徴的なオーラが与えられてはじめて記憶の場となる。教科書や遺言や退役軍人会のようなまったく機能的な場でも、それが儀礼の対象になってはじめて記憶の場となる。1 分間の黙祷は象徴的な場の極端の例だろうが、それがある時間単位の物質的な断片であり、時として記憶の集中的な想起に用いられると述べています。

ピエール・ノラの理論に基づけば、博物館、記念碑、駅、住所、言葉、食、本、切手、世代、映画、日付、世代、音楽・歌などが記憶の場になりうると言えます。

博物館網走監獄中の様子(1)

     

博物館網走監獄中の様子(2)

     

「北海道集治監の誕生と網走監獄」について、博物館網走監獄の公式ホームページを参考して記しておきます。

 1868年(明治元年)約260年余り続いた徳川幕府が終わりを告げて、天皇を中心とする明治政府が誕生しました。明治政府は、徳川幕府の鎖国政策によって世界の変化から取り残された日本の近代化を推し進めるため、すなわち古いシステムや制度を壊して新しい政治を行う中央集権化を始めました。しかし、明治天皇はこの時、16歳という年齢で、新しい政治で手腕を発揮するには幼すぎたので実際には江戸幕府を倒すために功績があった薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らが中心となって政治を行いました。
 まず真っ先に行ったことは、武士による政治は終わったと宣言する王政復古の大号令でした。新政府にとって、徳川家を中心とする幕府の生き残りは大きな脅威でした。 この結果、旧幕府の家臣たちと新政府は戦うことになり、日本を二つに分けた内乱戊辰戦争(1868年~1869年)がおきました。この戦いにより、江戸城の無血開城がなされ、新政府は江戸城に入城しました。もちろん旧幕府軍の中には納得しない人たちもいました。彼らは江戸をあとにして会津に向かいました。会津藩と新政府軍の戦いでは白虎隊の悲劇が有名です。更にこの戦いは当時蝦夷地と呼ばれていた北海道に移ってきました。戦いの舞台は函館、五稜郭という城に新選組の副長だった土方歳三や榎本武揚らが立てこもり、彼らは蝦夷共和国という政権を樹立しましたが4ケ月で敗北、城を明け渡し戊辰戦争が終わりました。  
 これにより、明治政府による本格的な政治がはじまったのです。明治政府は富国強兵というスローガンを掲げ、諸外国に追いつき、追い越すために産業を育成し、国を豊かにさせ兵力を強くし国力を充実させようと必死でした。その目標達成のためには、蝦夷が島の手つかずの資源が必要だったのです。しかし19世紀に入って蝦夷が島周辺には、イギリスやアメリカ、ロシアの艦船がやってきて調査を行うようになりました。ロシアはシベリアやカムチャツカ、サハリンを植民地とし、蝦夷が島をもロシアの植民地にしそうな勢いでした。 そこで、1869年(明治2年)明治政府は蝦夷地を北海道と名づけ、開拓使という役所を置いて開拓を進めることにしました。

 一方で明治政府は欧米の進んだ文化を学んでみようと大使節団を派遣することにしました。このリーダーに選ばれたのが岩倉具視です。 使節団はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツを2年間かけて訪問し諸外国の進んだ文化に感嘆し殖産興業への意を固めたのでした。このことが、留守を預かっていた西郷、板垣らとの考え方に溝を深めることになりました。 この頃、日本と朝鮮は国交断絶状態にあり、国交回復を何度か朝鮮に呼びかけましたが、拒絶されたことに憤慨した板垣退助は、武力で開国させようとしましたが、この考えに意を反したのが、使節団として派遣された人たちでした。 先進国の進んだ文明を見せつけられた彼らは武力による開国に反対しました。 使節団と留守部隊の考えの相違により、西郷と板垣は明治政府を去ることになったのです。ここから板垣退助は国会開設を政府に要求する自由民権運動を開始します。西郷は地元鹿児島に戻り私学学校を作り若者の教育に努めました。 この時、同じように明治政府を去った江藤新平らが佐賀の乱(1874年明治7年)を起こし、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族の反乱が相次ぎました。そしてとうとう1877年(明治10年)西郷が立つ日がやってきました。これが西南戦争です。ほぼ九州全域を舞台とした8か月に及ぶ内戦は西郷の自害で幕を閉じました。征韓論に端を発した西南戦争は国事犯を生み、明治10年代から増え続けた囚人は明治18年には8万9千人と過去最高の収容者数となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するため、明治14年監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道の地に求めました。広大で肥沃な大地北海道、ロシアからの北の守りを進めるうえでも北海道開拓は重要な懸案事項でした。北海道に集治監を設置し、廉価な労働力として囚人を使役させ、北海道の防衛と開拓が進み、人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得であるという苦役本分論のもと、明治14年月形町に樺戸集治監、明治15年三笠市に空知集治監、明治18年標茶町に釧路集治監、その分監として明治23年網走囚徒外役所が人口わすが631人の小さな漁村の網走に誕生しました。網走監獄120年の歴史のはじまりです。

博物館網走監獄の公式ホームページより


舎房についての説明

網走監獄博物館は、このような歴史的背景や政情により犯罪者となった人々が未開の地、北海道集治監に送られ北海道開拓という使命のもと北海道開拓に果たした功績と、彼らが罪を償いながら暮らした証である五翼放射状舎房をはじめとする明治の行刑建築物を文化財として保存公開しています。

  舎房の様子


 (網走)監獄に関連する書籍(博物館網走監獄)


 実は今回、博物館網走監獄を訪ねたのは2回目です。1回目は、約20年前、まだ学部生時代、ただの観光客として見学しました。2回目は、多少の地域研究や日本史などの専門知識を学んだうえでの見学でしたので、1回目よりはずっと多くの発見がありました。それと同時にもっと詳しく知りたいことも増えました。例えば、上記の「北海道集治監の誕生と網走監獄」と変わる徳川幕府、明治維新、戊辰戦争などなどです。まだ旅を継続し、続編を後日書きます。


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