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作家の五木寛之を通して読み解く東アジア(その2)

こんにちは。テツジンです。本日、再び作家の五木寛之について書きます。8月15日に一度五木寛之について紹介しました。


普段からコンスタントにいろいろなジャンルの本を読んでいます。毎回のブログで、本を読んだ感想なども綴ってきました。クリティカルシンキング(批判的思考)を養う本を愛読しており、特にこの2年ぐらいは、五木寛之の本を読み漁っています。その理由はいくつかありますが、一つの大きな理由は、五木寛之は、建設な批判精神を持つ「知識人」であるからです。

著名な文学批評家のエドワード・ワディ・サイード(Edward Wadie Said, 1935年- 2003年)によれば、

知識人とは、亡命者にして周辺的な存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。
知識人は、文化変容と文化適応に向かうのではなく、むしろ、うつろいやすさと漂泊のなかにとどまりつづけることになる。

五木寛之は、まさにサイードが言う「知識人」だと思います。

1回目の連載記事でも紹介したように、五木寛之は、戦後、朝鮮半島からの引揚体験=漂泊体験を持っており、80歳を超えた今でも、旅を続けており、精力的に執筆活動を続けています。その著書の多くには、クリティカルシンキングに基づく耳の痛いことを言っています。

五木寛之は、この本で成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的「下山の思想」を提示しました。

本 下山の思想

いま、この国は、いや、世界は登山ではなく下山の時代にはいったように思うのだ。私たちがいま学ぶべきは、先進諸国ではなく。すでに下山した国々、いま下山中の国々の現実ではありませんか。下山の先進国、という言い方は変だが、ギリシャも、イギリスも、スペインも、ポルトガルも、イギリスも、すべて下山の先進国である。そしてまさにいま下山にさしかかった大国がアメリカだろう。

 そして、五木寛之は著書『自力と他力』で、「他力本願」について異議をとなえました。五木寛之によれば、「他力本願」は、仏教用語で、元々は他人だのみ、自己責任放棄の表現ではなかったとのことです。

本 自力と他力



五木寛之は著書で、具体的ヨットの事例を取り上げて「他力」の重要性について説明しています。

エンジンのついていないヨットは、風が吹かなければ動きません。逆風であれ、順風であれ、まったくの無風状態では帆走(はんそう)することは不可能です。(18頁)

五木寛之は、「他力」を感じつつ、「自力」を忘れないことを強調しています。

「他力」を信じるということは、決して「自力」を放棄したり否定したりするということではありません。「自力」のよってきたる源泉としての「他力」、「自力」の母としての「他力」を、「自他一如」と言うのではないでしょうか。大きな「他力」を感じつつ、「自力」を忘れないという、そういった自由で活気のある思想としての「他力」を思い描くことは、決して異端の「他力」思想ではない、と私は思っているのです。

今の大変な時代こそ、「知識人」である五木寛之の「下山の思想」「自力と他力の思想」などに学ぶ価値があると考えます。


参考文献

・エドワード・W・サイード著、大橋洋一訳『知識人とは何か』平凡社、1998年。

・五木寛之『下山の思想』幻冬社新書、2011年。

・五木寛之『自力と他力』ちくま文庫、2014年。

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