こんにちは。哲学チャンネルです。
前回のエピクロス宇宙・原子論編はご覧いただけたでしょうか?
今回は後編として「倫理学編」を解読します。
ストア派寄りな私にとって、その対象としてのエピクロス派については、無視できない存在であり、同時に一定以上の共感を得る思想でもあります。
少し脱線しながらの解説になりますが、ぜひ最後までご覧くださいませ。
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メノイケウス宛の手紙
序
幸福と哲学(知恵の探究)はセットである。
だから、幸福になりたいならば、知恵の探究を怠ってはいけない。
これには年齢は関係ない。いくら若かろうが、いくら年老いていようが知恵の探究は必須のものであり、それなしに幸福はあり得ない。
年老いたものは、自身における過去の哲学探究を振り返ることで、いつでも幸福でいられるし、若者は未知のものへの恐怖(特に死について)を恐れないことによって、幸福でいられる。
つまり、哲学の探究とは、幸福の諸要素に関する探究である。
幸福を手に入れることは人生の全てだし、それが欠けている場合は幸福を追い求めざるを得ないのだから、幸福に少しでも不足があるならば、哲学探究を行うべきである。
Ⅰ 美しく生きるための基本原理
神は存在する。なぜなら神は明瞭に認識できるからだ。
(エピクロスにとっての神は原子の集合である。だから、神は視覚によっても認識できると考えた。しかし、その原子は微細であり他の物質同様に認識することはできない。観念には直接捉えられないものの、その直観は先取観念を作り出し、人類共有に神の認識を可能とさせる)
しかし世の中で信じられている神は間違っている。
神は感情を持たない。だから悪人に対して怒ったり、悪人が犠牲になることでそれを許したりすることはない。
このような神を否定するのは不敬虔ではない。むしろ、偽りの神を啓蒙する方がよっぽど(エピクロスの信じる神に対する)不敬虔な行いである。
人格神としての神ではなく、自然の摂理としての神を進行していると言える。
エピクロス特有のパンチラインである。
人間は死と共存することができない。
人間が生きている間は(自身の死は)存在していないし、自身の死が存在している(表現がおかしいが)ときには既に自分は存在していない。
だから自分と死がセットになることはあり得ない。
それなのに死を恐ろしいと感じるのは(死は存在していないのだから)死そのものが恐ろしいのではなく、死に関連する『思い』が恐ろしいのである。
だから「死は本質的になにものでもない」という真理に慣れることが重要だとされる。
そして、死の本質的無意味を理解すると、生に対する恐怖もなくなる。
最大の恐怖である死が本当のところは何でもないわけだから、それ以下の恐怖だった生の諸々も本質的には何でもないということになる。
死にまつわる恐怖を克服することで、いつか死ぬ人生を楽しむことができるし、余計な不安を感じずに生きることができる。
賢者は死についての正しい認識を持っているから、死ぬことを恐れることもないし、死ぬことが辛い生からの脱出だと考えることもない。
ただただ、生を生として楽しむことができるのが賢者であり、それはちょうど食事の楽しみ方を心得ている人間と似たようなものである。
それぞれの環境によって善い生き方が異なると説く人は間違っている。
なぜなら、生はそれ自体で完成された素晴らしいものであり、それ以上に付け加えるものなどないからだ。
「人生は苦痛だから生まれないのが最善である」(当時から反出生主義的な思想はあった)と説く人はもっと間違っている。本当にそれを信じているならその人はすぐに死ぬはずだし、すぐに死なないのならば言葉遊びとしてそれを主張しているとしか思えないからである。
キュレネ派の哲学者は「現在のことのみがわれわれのものである」と主張するが、エピクロスは「未来が全くわれわれのものではない」とは考えていなかったようだ。想像という領域においては未来は確かに存在する。とはいえ、キュレネはに対するこの反論が明確に何を表現しているのかは私には理解できていない。
Ⅱ 倫理説
欲望には「自然な欲望/不自然な欲望」があり、「自然な欲望」には「必要な欲望/不必要な欲望」がある。(もっと細分化すると「自然で必要な欲望」には「幸福になるための欲望/生きるために必要な欲望」がある)
「不自然で不必要な欲望」とは名声や権力を得ようとする感情である。
これは社会的に作られたものであり、人間的には全く必要ではない。
「自然で不必要な欲望」とは贅沢な食事や豪邸や享楽的な生活である。
人間がこのような欲望を抱くのは自然であるが、本質的には人生に必要なものではない(幸福に直結しない)
「自然で必要な欲望」とは生きるための食事や衣服や生活である。
「自然で必要な欲望」以外の欲望は苦痛を生み出す。
それによって実現される快楽が如何に大きくても、苦痛も比例して大きくなるために、差し引きで幸福が勝ることはない。
だから、快楽の最大化のためには苦痛の消滅が必須である。
そして苦痛を最小化する方法は「自然で必要な欲望」のみに耳を傾けて、必要最小限の生活を送ることである。
エピクロスは刹那的な快楽(苦痛とセットだから)を忌避し、人生全体の快楽の最大化を追い求めていたと考えられる。
そして、たどり着いたのが必要最小限の自足的な生活(エピクロスの園)だったのである。
先述の快楽と苦痛の関係を詳しく述べた項。
快楽にはさまざまな種類があるが、私たちはそれを好き放題選ぶべきではない。その快楽に関して苦痛が付随する場合は、如何にその快楽が大きくてもそれを選ばない判断が正しいこともある。
逆にどれだけ苦しい思いをしても、その結果苦痛以上の快楽を手に入れられるものがあるとすれば、それを選ぶことが正しいこともある。
そういう意味で、快楽は善にも悪にもなり得るし、苦痛にも同じことが言える。大事なのは快楽と苦痛を定量的に比較し、差し引きプラスになる判断を心がけることである。
エピクロスの説く充足は、非常に個人的なものである。
それまでのポリスでは社会の成員としての生が重視されるきらいがあったが(アリストテレスの倫理観などはまさにそうだった)エピクロスが生きたのはポリスが崩壊していく時代である。そこには社会的な安定が弱かったため、必然個人的な充足が重視されるようになったのだ。
エピクロスの教説はストア派などに攻撃された。
ストア派の実践は快楽主義と同様に節制や自足が重視されるものだったので、目指す生活はかなり近いように思える。それでもストア派がエピクロス派を攻撃したのは、まさにこの個人性にあると思われる。
エピクロスは政治に対する参加を拒否するが、ストア派はこれを容認する。
むしろ、必要とあらば積極的に社会に参加することも必要であると考える。
エピクロスの思想は古代ローマの貴族たちに受け入れられたのだが、貴族たちがストア派ではなくエピクロスの教義に共感したことは、当時の時代感を知るのに一役買うと思う。
自己充足のためには「充足」の定義をしなければならない。
何を持って「満たされている」と感じるのか。
ここにはアリストテレス的な『中庸』の概念が見られる。
快楽と苦痛をしっかりと精査した上で、本当に必要なものだけを残していくと質素な生活になる。ここにエピクロス派の真髄がある。
エピクロス派の快楽を一言で表すと「苦痛がないこと」と表現できるかもしれない。だから、快楽を積極的に求めることはない。(そこには苦痛がセットで付随しているからだ)
「苦痛を最小限にとどめる」というベクトル自体に厭世主義的な色が見える気がしなくもないが、実際厭世主義的な要素は含まれているのだろう。
また、苦痛を最小限にとどめるためには、理性も必要である。
先述の「死について」でも表されている通り、我々が感じる不安や恐怖は、その多くが実体を何倍にも膨らませた結果感じているものである。そのため、実体を理性的に正しく理解することによって、それに対する不安や恐怖は一層少なくなると考えられる。
快楽が最大化され、同時に苦痛が最小化されるような生活を送るためには、行動を判断によって矯正しなければならない。そしてその判断を司るのは理性であり思慮である。
「快楽が最大化され、同時に苦痛が最小化されるような生活」が幸福なのだから、その幸福は最高の善である。その幸福を実現するために必要なのが思慮なのだから、思慮は最高の善である。
だから思慮は哲学よりもなお善い。
デモクリトス以来の唯物論(原子論)においては「決定論」が導出され「自由意志」は否定される。つまり、運命はすでに決まっていて、我々はそれに関与することはできない。
しかしエピクロスはそうではないという。前編で見たように、彼は原子には自由落下という性質とともに落下の方向の偏りがあると考えた。これはつまり原子運動の偶然性である。そして彼はこの偶然性に自由意志の可能性を見た。
このことから「世界の大部分は原子運動によって定められているが、それが我々には何もできないということではない。力の及ぶ範囲(我々の生活の大部分)においては自由な選択が可能であり、特に快楽を追求する選択は自由に基づいている」と言っている。
この辺りもストア派の思想とは大きくかけ離れた性質と言える。
しかし、後半は非常にストア派的な結論が導き出されている。
偶然性によって起きる様々なこと。それらは決して万物の原因になり得ないし、不確かな(見えない)原因にもなりはしない。つまり善や悪とカテゴライズすることはできない。あくまでもそれらは精神を通して善や悪を実践する際の材料にしか過ぎないのである。
後期ストア派の哲学者エピクテトスは[語録]でこう述べている。
「善の本質はある種の選択意志であり、悪の本質もある種の選択意志である。それでは、外的なものは何であるか。それらは選択意志にとって、それらを扱うことでみずからの善や悪を獲得することのできる材料である」
外的なものを自身と同一視せずに、単なる出来事として切り離して考える。
方向性の違う二つの思想で支持されているこの考え方には私自身も強い共感を覚えている。
エピクロスは快楽を最大化し苦痛を最小化する実践をするための場所を作った。それがエピクロスの園である。
同じ目的を持った仲間と研鑽しながら理想の人生を選択していく。
これが彼の考えた最良の生き方であった。
そしてその生き方を手に入れたものは、そうでないものとは一切似つかないような存在となり(彼曰く、快楽を求めるのは自然本性的な、つまり人間において一番自然に近い形であるとされた)それは人間の中でも一番神(自然)に近いものである。
エピクロスは死後、その言葉の通り、後世の弟子たちに『神』として崇められるようになる。
おわりに
いかがでしたでしょうか?
前編後編とエピクロスの「教説と手紙」の一部を抜粋して解説を試みました。
個人的に(本編でも触れましたが)エピクロス派の主張に対するカギとなるのはその個人性、閉鎖性だと思っています。
人間はその機能として社会への参加が前提条件に作られているのではないか?アリストテレスなどはこの問いにyesと答えるわけですが、一筋縄ではいかない問題です。
とはいえ、わたしたちが生きる資本主義社会は人間が積極的に社会(経済)に参加しないと存続が不可能です。
参加者が全員エピクロス派に属し、それぞれが自足的な生活を始めると、資本主義はあっという間に破綻します。
資本主義は「欲望の増幅・再生産装置」ですからね。
しかしながら、例えば近い未来にテクノロジーが発達して、生きていくためのコストをほとんど自動で賄えるようになったらどうでしょうか?
それでも人間は、文化をより発展させるために社会に積極的に参加し続けないといけないのでしょうか?
それとも、そこで初めて個人の幸福だけを考えて、エピクロス的な生活を目指すべきなのでしょうか?
その議論が必要な時代がすぐそこまで来ているような気がします。
そういう意味で、近い未来、エピクロスの思想は再度脚光を浴びることになるのだと思っています。そうなるといいなぁとも。
完全に思いつき&好みで始めた企画でした。
少しでも暇つぶしになったのならば幸いです。
それではまた次回お会いしましょう!