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ホリーのいう「嫌なアカ」とはなんなのか? 『ティファニーで朝食を|カポーティ・トルーマン』

こんにちは。哲学チャンネルです。

先日『ティファニーで朝食を|カポーティ・トルーマン』に関する音声をサブチャンネルにアップしました。

それなりのあらすじに関してはサブチャンネルを参照いただくとして、超絶雑に紹介すると、主人公である「僕」はアパートメントの下の階に住んでいる「ホリー」という天真爛漫な美女に恋をした。彼女は全然「僕」に振り向いてくれないが、彼女と過ごしたあの日々は「僕」にとってかけがえのないものだった。というお話です。

それで、ヒロインのホリーが作中で「嫌なアカ」という表現をするんですね。

「ねぇ、いいこと。ほら、いやったらしいアカに心が染まるときってあるじゃない。」(中略)「でもいやったらしいアカっていうのは、もっとぜんぜんたちが悪いの。怖くてしかたなくて、だらだら汗をかいちゃうんだけど、でも何を怖がっているのか、自分でもわからない。何かしら悪いことが起ころうとしているってだけはわかるんだけど、それがどんなことなのかわからない。」

ティファニーで朝食を|トルーマン・カポーティ 村上春樹訳

今回は、彼女がいう「嫌なアカ」とはどんな感覚なのか?について、簡単に検討してみたいと思います。



作中でホリーが「嫌なアカ」は「ブルーな気持ち」とは違う。むしろ「ブルーな気持ち」よりも「嫌」という描写があるんですね。

「ブルーっていうのはね、太っちゃったときとか、雨がいつまでも降り止まないみたいなときにやってくるものよ。哀しい気持ちになる、ただそれだけ。」

ティファニーで朝食を|トルーマン・カポーティ 村上春樹訳

赤と青で対比されていますので、両者の感情には何らかの関係性がありそうです。そこで馴染みの深い「青」側を検討してみましょう。

「ブルーな気持ち」とはどういう感覚でしょうか。
これはどこまで行っても私的な感覚でしかないですが、私が「ブルーな気持ち」と表現するとき、それは、なんとなく無気力になって、世の中から色が消えて、全てがネガティブに感じられて、何もしたくないという、いわゆる鬱っぽい状態のことを指すような気がします。
何というか、その「温度が低い感じ」を「ブルー」と表現しているのではないでしょうか。

では、その対照として提示される「赤」はどうでしょうか。

そう考えると「嫌なアカ」には「青」よりももう少しカッカして温度が高い印象を感じますよね。何もしたくないわけではない、むしろ何かしないといけないと思っている。でも何をすれば良いかわからない。何をすれば良いかわからないのに何かしなくてはいけないという感情だけ先走って、前に進んでいない感覚に焦りだけが募っていく。「嫌なアカ」とはこのような、焦燥を表した言葉のような気がします。

ホリーには明確な「未来の自分像」がありました。まぁ簡単にいうと「お金持ちになって自分の好きなように生きる」というのが、それなわけですが、今の自分を見ると、将来的にそうなれているイメージが全く湧かない。そのために努力したいという気持ちがないわけではないけれど、その努力ができているかと問われると、それは間違いなくできていない。それは努力をしていないというよりかは、努力の仕方がわからないというのが適切で、それを自覚しながらもどんどん時間が進んでいくのが、歯痒くて怖くて耐えられない。そんな気分を「嫌なアカ」と表現していると考えると、すごくしっくり来ます。

そんなホリーが唯一「嫌なアカ」を忘れられるのが、ティファニーの中にいる時だったわけですね。それがなぜだかはわかりませんが、その空間の中にいると「嫌なアカ」を忘れて、安心することができる。

「嫌なアカ」がホリーに残すのは「行動しろ」という命令です。しかし、焦りによってホリーが起こす行動は「未来の自分像」の方向を向いていません。だから、行動すればするだけ「未来の自分像」から離れていくのがわかる。そして「未来の自分像」から遠ざかれば遠ざかるほど「嫌なアカ」は大きくなる。でも「嫌なアカ」を紛らわすためには行動(して安心)するしかないから、ホリーは今日も「未来の自分像」に対して見当違いの行動を繰り返す。

私たちが共通して持つ「嫌なアカ」に対する感情というものは、『ティファニーで朝食を』にて提示されるテーマの中でも、最大のものの一つだと思います。

そもそも『ティファニーで朝食を』という表現は「嫌なアカからの脱却」という目的の比喩であると捉えられますし、個人的にはそうとしか捉えられません。

どうでしょうか。皆さんも今回解釈したような「嫌なアカ」を感じたことがないでしょうか。少なくとも私はわりと頻繁にそのような感情を抱くことがあります。(最近はかなり減ってきた自覚がありますが)

で、大体「嫌なアカ」を感じているときに無理やり実行する行動って、良い結果を産まないんですよね。そういう意味で、私たちは「青」と「赤」の間で生きていて、「青」と「赤」によって人生をかき回されていると解釈することができます。

少し無理やりなこじつけになりますが「青」と「赤」が混ざった色「マゼンダ」には(スピリチュアル的な解釈として)「人のために奉仕する人、周りへの気遣い、日常の些細なことへの何気ない配慮、思いやり」という意味があるとされています。

「ブルーな気持ち」のときには、何もしない自分を認めてあげること。
「嫌なアカ」のときには、一旦立ち止まって今自分が取り組める確実なことにのみ目を向けること。そうやって、極端に「青」にも「赤」にも染まらずに、その中間地点をスイスイと生きる。もしかしたら、それが自分に対する最大の思いやりなのかもしれません。

小説の「僕」は、ホリーとのドタバタな毎日を過ごしながら、それでも夢である小説家に向けて執筆を続け、後半のシーンでは「小説が2冊売れた(要チェック)」と喜んでいます。

『ティファニーで朝食を』を「アカい気持ちに翻弄される女性」と「着実に毎日を歩んでいく男性」の対比の物語として捉えると、また面白いかもしれませんね。(とはいえ「僕」は「アカい気持ちに翻弄されるホリー」に憧れを抱いていたわけで、単純に赤でも青でもない状態が良いとはいえないのが、人生の難しさです。)

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