ラブライブ!スーパースター!!に見た幻影とわずかな肩すかし感
先日、全12話の放送を終えた『ラブライブ!スーパースター!!』大変楽しく視聴いたしました。アニメの感想と全話視聴後に思ったことをまとめたいと思います。
前半(1話~6話)の完成度、そして期待
「このアニメは面白い!」
「このアニメはきっと面白い!」そう確信した視聴者は多いだろう。ラブライブ!スーパースター!!、序盤はめちゃくちゃ面白かった。
受験に失敗してやさぐれている主人公澁谷かのん。かのんの歌声に一目惚れしてグイグイ勧誘にしにくる上海から来た唐可可。その他、後々仲間になる予定のみなさん。1話こそ可もなく不可もなくといった感じだったが2話3話と進むにつれ、どんどん面白さが増していく。かのんと可可の二人を中心に丁寧に描かれる物語、共感しやすいキャラクタの感情、小気味よく挿入される笑い、壮麗な背景、そして胸を打つ挿入歌…
「これだ…これこそがオレたちの待っていたラブライブだ」2015年以降、新シリーズを見ても肌に合わずラブライブから他界していたはずの古参ファンさえも評判を耳にして現世へ回帰したと聞く。もともと深夜枠だった作品を教育テレビで夕方に見るというのもシリーズが10年続けばこその変化と言えよう。奇しくも延期され無観客となった東京五輪が行われているはずの新国立競技場を模したステージで高らかに歌う5人の少女たちは、それまでのラブライブにはなかった新しさと力強さを持っているように思えた。
前情報を一切入れずにアニメを見たので、舞台が「新設された学校」(1年生しかいない)であること、背後には「かつて廃校になった学校」が存在することの匂わせがあったことに驚いた。(初代やサンシャインを見た人ならどうしたって先代のことを意識しないわけにはいかないだろう。)と同時に、制作陣から「これは新しいラブライブです。」と宣言されている気がした。どういう経緯でこのアニメ(スーパースター)を見るに至ったかは置いておいて、ひとまず舞台はまっさらな新設校、過去のしがらみは何一つ無いというわけだ。そういうつもりで見るつもりでいた。
過去作品のオマージュとリメイク
スーパースターの各話にラブライブシリーズの過去作品をイメージさせるカットだったりファンサービスのような場面が登場する。賛否両論あると思うが、過去作のキャラが登場するとか不自然に内輪ネタが挿入されていたわけではないので個人的には特筆して良かった悪かったという印象は残らなかった。
それとは別にメタ視点で過去作との関連という面で3点言及したい。
①澁谷かのんと唐可可の出会い
完全にラブライブ!サンシャイン!!のリメイクである。スクールアイドルに憧れて日本に渡って来た唐可可が歌が得意なのに歌うことができない澁谷かのんに猛烈アタックをする構図はさながらμ'sに憧れる高海千歌とピアノが楽しくなくなって内浦に越してきた桜内梨子のようである。
二人の少女が運命の出会いをしてスクールアイドル活動を始めるのは見ている側も非常にわくわくしたと思う。 また、サンシャインでは結局あまり活かされなかった「ちかりこの運命的な出会い」という要素が昇華されるのでは?と期待を高めている。(2期にも期待!)
②幼なじみの「横に並べるような人になる」という理想
初代ラブライブ1期の後でちょっと言われていた「終盤のことりちゃんの行動」に相当するのが、スーパースター第6話である。第6話は「丁寧に描いた南ことり留学取消し騒動のコンメンタール」である。
視聴者の「なんでことりちゃんは勝手に留学しようとしてたの?」「ことりちゃんはそれでいいのか?」という疑問に対する間接的な回答と言ってもいいかもしれない。
「かのんちゃんの隣に自信をもって並べる人間になる」という目標を掲げ、それに向かって日々精進し、時には大好きなかのんちゃんと離れることになっても自分に課した目標を遂げることを優先する嵐千砂都という人間はやや特殊であるが、そういう理想を持った人格として理解すれば第6話は非常にいいお話として受け入れることができる。
冷静に考えてダンスの大会で優勝できなければかのんちゃんの役に立てないから海外に留学しようとする発想は狂っているような気がするが、「幼なじみに負けない自分になりたい(そのためには離れ離れになっても構わない)。」というヤバい思考の女は最近のアニメでは比較的頻繁に登場する気がする。
③学校を守るためにスクールアイドルを禁止しようとする女
葉月恋は雑に描いた絢瀬絵里である。この辺はもうちょっと何とかしてほしかったな…
澁谷かのんが「人前で歌えない」ことの意味
第1話から物語を突き進める重要な役割があった「主人公の澁谷かのんは人前では歌が歌えない」という設定。しかし小学校の発表会で卒倒して以来、大事な時や大勢の人前では歌うことができなくなってしまった。
かのんは歌が大好きで歌が得意。この歌声のおかげで唐可可はかのんを見つけることができた。第1話で二人が出会うきっかけになった要素でもあるし、人前では歌えないはずなのに何故か可可の誘いに応じたら歌うことができるようになった(もしかするとスクールアイドルとしてなら歌えるかもしれない)というかのんがスクールアイドルをする動機にもなっている。
第3話では「クーカー」として唐可可と一緒に初めてステージに立つことになった澁谷かのんだったが、例の「歌えない」が発症してしまいそうになる。しかし嵐千砂都のペンライトのアイデアと仲間の唐可可が「一緒にいてくれる」ことによって恐怖を克服してライブは成功する。この時点で澁谷かのんは条件つきではあれど「人前でも歌える」ようになっている。
なお、3話のこの辺の絶妙な関係性、かのんが歌えなくてもかのんと一緒にスクールアイドルをやりたいという唐可可(本当はラブライブで結果が出せないと中国に帰らなければならないのにかのんと歌うことを選んだ女)、唐可可が隣にいてくれれば恐怖を乗り越えられた澁谷かのん(「可可ちゃんのために」なら歌えるかもしれない)、そして本当は澁谷かのんを助けてあげられる人間になりたかった(のに、自分がいるべき場所には別の人がいるのを見せつけられている女)嵐千砂都。この時点の三者のこじれた矢印、人間ドラマは歴代最高の面白さがあったと思っている。
ところが11話、地区大会の予備予選で有名になったLiella!にかのんの母校である小学校から出演依頼が来る。ここで嵐千砂都がどういうわけか「かのんが一人でも歌えるようにならなければダメだ」ということをしきりに訴え始める。
千砂都「かのんちゃんが歌えているのはみんなと一緒だからだと思う」
千砂都「この前の小学校の時もそう。かのんちゃん、みんながいるから一人じゃないって思えるから歌えるんだと思う」
可可「それはよくないことなのですか?仲間がいるから歌えるって素敵なことだと思いますけど」
千砂都「私もそう思ってた。でもね それって本当に歌えることになるのかな?ずっと今みたいな不安は消えないんじゃないかな?」
「えっ、どゆこと?」
言ってることはわからなくもないけど、嵐千砂都の執拗なまでの「完璧な澁谷かのん」に対する理想は何なんだ?嵐千砂都はラブライブで勝つために、澁谷かのんが過去のトラウマを乗り越えて千砂都の望む「あの頃のかのんちゃん」のチカラを取り戻すことを求めているけれど、結局12話ではサニーパッションに勝つことができない。このタイミングで挿入する必要性のあるエピソードだったのか未だによくわからない。2期でもいいし、これやるなら地区予選で負けんなよ!とも思う。
むしろ作中においては、かのんが一人で歌えないということは、「過去の失敗によって自分一人ではできないけれど、仲間が一緒にいてくれたらそれを乗り越えられる」という広い意味でのメッセージ性を有した要素だったが、自分と向き合って障害を乗り越えてしまった後では「かのんの個人的なトラウマに過ぎない」かのように射程が狭まってしまったようにさえ感じられる(というのは言い過ぎか…)。
役割を失っていく唐可可について
突然だがこれを読んでいるあなたは、『フープメン』という漫画をご存知だろうか?『フープメン』は、2009年に週刊少年ジャンプで連載されていたバスケ漫画である。私はスーパースターの1話を見た後で不意にこの打ち切り漫画のことを思い出した。(打ち切り漫画とはいえ結構面白いので第1話だけでも読んでほしい。)
https://bookwalker.jp/series/138948/
以下『フープメン』のあらずじ
(本題から逸れるので簡単に説明するが)主人公「佐藤雄歩」は、ある日バスケ部にスカウトされる。佐藤はバスケ経験もないのにと不思議がっていたが、実は選手としてではなく、アメリカからの転入生「ジョシュ」(こいつがバスケ超上手い)の通訳をさせるためだった。佐藤は、家庭の事情で英語だけはペラペラに話せるのだった。
ジョシュはメンバーにパスを回す司令塔だったが言葉の壁があるせいでチームメイトと円滑にコミュニケーションが取れず困っていた。そこで佐藤が通訳を任せられた訳だが、佐藤がジョシュの指示を伝えるとチームが有機的に機能し始め、練習試合に勝ってしまうほどであった。(第1話)
設定と第1話の見せ方こそ非常に面白い『フープメン』だったが、結局連載が続くことはなかった。ネットでは、同時期に掲載されていた『黒子のバスケ』に人気を食われたからと言われているようだが、個人的な印象では、「外国人のスター選手とその通訳を任された少年の物語」という当初の個性を、連載が続くうちに自ら潰していったからではないかと思っている。具体的には①佐藤が自分もバスケの練習を始めて選手(主人公なのでどんどん上手くなる)になってしまうこと。②ジョシュが日本語の勉強を始めて佐藤がいなくとも意思疎通ができるようになってくること。
当たり前だが、二人の主要キャラの役割が没して来るだけでなく、コミュニケーションの壁、二人にしかわからない英語の会話、佐藤だけが悩むべき通訳としての葛藤などの描写が激減してただのスポーツ漫画になっていったのだ。
唐可可にもまったく同じことが当てはまる。最初こそ中国から来た少女ということで目立ったが、徐々にメンバーの一人に落ち着いていってしまった気がする。
最初は本当に中国人という設定が上手くキマっていたと思う。特に第2話、「可可が書いた(中国語のままの)詞をかのんが翻訳する」という部分。翻訳家の父を持つ(という設定の)かのんだけが可可の想いを受け取ることができる。スクールアイドルを通じて二人が出会わなければあのファーストライブは成功しなかった、そういう運命の二人であることが見事に描かれている。
が以降、唐可可は衣装・ステージ道具担当みたいな役割に変わっていき、作詞をすることはなくなっていく。序盤の印象が良過ぎることもあり、メンバーが増えていくにつれ段々と存在感が薄れていく唐可可。
しまいには10話で家族との会話をスマホの翻訳アプリのようなもので簡単に盗み聞かれてしまう。ここに来て完全にかのんの父が翻訳家である意味が失われてしまった、と同時に可可が海外から来た意味もほとんど失われてしまった。(「会えないほど遠い」なら離島でもいいし、「親に反対されている」なら日本人でもいい。)それまでのシリーズのロシア人のクウォーターとか母がアメリカ人とか純粋スイス人とかと同列の、あまり深い意味のない属性のひとつになってしまった。
12話について①(「負けて悔しいから勝ちたい」という感覚)
最終話、かのんたちは頑張ったけど結果は2位でラブライブには出られない。「なんでラブライブに出たいか」をいまひとつ分かっていなかった澁谷かのんは、敗北したことで、悔しさを知ったことによってようやくその意味を理解する。
このまとめ方は1期の終わりとしては非常によかった。驚きもあったし最後に一本ピーンと筋が通ったように作品に締まりが出たと思う。
よかった。良かったんだけれど何か引っかかる。
その理由を2点考えた。
一つ目が、ラブライブ!をスクールアイドルという「競技」の大会にしてしまったこと。
12話、サニーパッションが登場したあたりから急速にどこかで聞いたことのある話題が繰り返される。
「歌で勝ったり負けたりってあんまり…」、「歌は競い合うものじゃない」、「スクールアイドルのレベルが技術的に上がった(のはラブライブのおかげ)」
ラブライブサンシャインの時も感じた「置いてけぼり感」が再発しそうになった。そりゃラブライブの世界の中ではそうなんだろうけど、なんか作中における「ラブライブ!」の意味が私たちの現実世界の「ラブライブ!」のイメージとどんどん乖離していく。
もう私の感覚が古いのかもしれないが、個人的にどうしても初代のμ'sの頃の「スクールアイドルの祭典としてのラブライブ!」のイメージが先行してしまう。μ'sがなぜ前回大会の優勝者であるA-RISEに勝てたのか。技術的に上だとかパフォーマンスがすごいというだけでは勝てないのがラブライブであって、アイドルという”人気や応援(「好き」という気持ち)を獲得する存在”の祭典においては、技術的には劣るμ'sのようなグループが優勝し得るというのが肌感覚として非常に馴染んでいる(勝ちにこだわったグループは負けるというイメージすらある)ので、サンシャインで色濃く描かれた「競技性の高まった全国大会としてのラブライブ!」、そして「勝ちたい」と強く思うキャラにアレルギー反応を起こす身体になってしまったようだ。
初代の時には絶妙に回避してきた問題(廃校や卒業という別の問題に注目させラブライブに対してどう向き合っていたかが意識されることはあまりない。2期10話など)
「悔しいから勝ちたい」、「応援してくれた人を笑顔にしたいから優勝したい」というかのんの気持ちは作中でこそ重要な動機になるのだろうが、視聴者的には共感しにくい感覚である。
ラブライブという作品の中で、登場人物にラブライブに出ることの意味を考えさせると非常に危ういのだ。「スクールアイドル」という架空の文化が存在し、そのスクールアイドルたちが「ラブライブ!」という全国大会のようなものを目指しているというのは、あくまで作中の設定に過ぎない。これを問答し始めると一応答えらしきものは出るけれど、その答えは作品の中でしか通用しない禅問答のようなこじんまりしたものになってしまうのではないか。
12話について②(Liella!を応援する生徒たち)
他の生徒たちがかのんたちのステージ作りに協力して、最後はステージまでの道を案内してくれるという場面。学校のみんなが応援してくれるというのは、いかにもスクールアイドルらしい。他の活動をしている子も結ヶ丘は新設された学校だから1年生しかいなくてすぐ負けちゃう。だからLiella!がこの学校の希望なんだというのも理解できる。
この部分、別に気にならない人もいるだろうし、よかったと思う人も多いと思う。けれども先日ようやく何が引っかかるのか言葉にできたので、参考までに記録しておく。
つまり私の感じた違和感は、「あんまりオタクをオタクのままで肯定しないでくれ」という気持ちだった。
Liella!のことを応援していた学校の同級生たちはスクールアイドルではない。1話でかのんが「スクールアイドルやってみない?」と聞いて回っていたときに「ごめん、○○があるから」と断った人たちである。そう、彼女たちはスクールアイドルに関わること以上に優先するべき「何か」を持って結ヶ丘に入学した生徒なのだ。打ち込むべき「何か」を持った者たちだったはずなのだ。それは音楽科の専攻でもいいし、自分の部活動でも学業でもなんでもいい。
いわばLiella!の活動を見守る結ヶ丘の生徒たちは、「ラブライブ!スーパースター!!」を見る我々なのである。我々は本来、かのんたちの頑張る姿を見て各自のやるべき「何か」に向き合っていかねばならない。(これは何でもいい。大層な夢じゃなくともいい。仕事でも勉強でも恋愛でも趣味でも何でもいいから、とにかく「自分がやらなければならない何か」である)これこそがラブライブというアニメを見ることの本当の意味ではないかと思っている。
Liella!のキャストが一般公募で決まったことは有名だが、もう一度翻って自分のことを考えてみてほしい。現実の「ラブライブ!」に挑戦することで(声優になるという)夢を掴んだ人たちは確かに存在するが、オレたち(オタク)がラブライブを追いかけることでオレたちは何を成し遂げただろう?(当たり前だが、ライブに参加することが現実から逃げているとかオタク趣味が悪いということを言いたいのではない)
Liella!を応援することで、かのんたちに夢を託すことで自分の夢を諦めていることを忘れようとしていないか?Liella!を応援する生徒たちに感じた若干の違和感の正体はこれだった。彼女たちには「勝たせてあげられなくてごめん」ではなく、「Liella!の歌に勇気をもらった。今度は私たちも頑張るよ!」と言ってほしかった。「私を叶える物語」ってそういうことじゃあないのかな?
まとめ
ラブライブ!スーパースター!!、人気作の新シリーズとして十分に期待も大きかったと思うが、生き生きとして魅力的なキャラクタ、熱い展開を存分に提示し、私を含む視聴者を満足させたと思う。途中もにょっと感じる部分がなかったわけではないが、全体としては非常によくまとまっていたと思う。(その上で何点か気になる部分については既に書いた通りである)
2期の制作も決まったということでますます盛り上がっていくこと間違いなし!といった感じだろう。きっと2期まで完走すれば、心から満足できるものが見られれるはずという新たな期待もある。
それとは別に個人的な変化も感じることになった。(単にオタクとして老いただけなのかもしれないが、)
「香を嗅ぎ得るのは香を焚き出した瞬間に限る如く、酒を味わうのは酒を飲み始めた刹那に有る如く、恋の衝動にもこういう際どい一点が時間の上に存在しているとしか思われないのです。」(夏目漱石『こころ』より)
「恋の衝動」の部分を「オタクがハマる作品」と読み替えてもよい。私にとってラブライブが「こういう際どい一点」を過ぎたものになってしまったのかもしれない。当然すべてのオタクに当てはまることではないが、少なくとも私は凝り性で飽き性であって、日曜の朝に毎週放送されるアニメを延々と見続けるような視聴方法(あまり高い期待をしない代わりにずっと好きの気持ちを維持できるスタイル、いわば大河ドラマや笑点を見るような感覚)ができない性質なので、来るべき時が来たかといった感じでもあるが、もしかすると私がラブライブに求める何かはラブライブを見ることではもう手に入らないのかもしれない、ということを思ったりした。
以上
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