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【雑記】最近よく「偉いね」と言われるけれど、素直に喜べない自分がいる。

最近、友人達によく「偉いね」と言ってもらえる。会話の流れからして私が半ば強制的に言わせているようなものなのかもしれないけれど、どうにも素直に喜べない。今回は、私が「偉いね」と言われるたびに考えることを書いてみる。(とにかくメモのような感じになってしまって、大変読みにくくなってしまった)

まずは、私の近況について。
私は現在、障害児(者)について、特に「インクルーシブ教育」についての学習・研究をしている。インクルーシブ教育とは、簡潔に表現するなら「障害のあるなしに関わらず同じ教育を受けることを理想とする教育」と言ったところだろうか。「インクルーシブ教育に明確な定義は実は無い」とか、「じゃあ特別支援教育って必要ないのか?」とか、語ろうと思えばいくらでも語れるだろうけれど、今回は割愛。
そして、今年度から学生支援というものに参加するようになった。どの大学にも基本的にあるもので、障害のある学生の支援を主に行う。車椅子利用学生のための移動支援や聴覚障害学生のためのオンデマンド授業の字幕付けなど、支援内容は多岐にわたる。私が携わっているのは「PCノートテイク」といって、視覚障害のある学生を対象とする、大学教員の授業内での発言をすべて文字に起こす支援である。この詳細についても今回は割愛。
さらに、来年からは介護職として働くことが決定しており、絶賛初任者研修受講中である。
以上からも明らかなように、今の私は福祉分野にどっぷりと浸かっているわけである。


数少ない友人達は全員毎日会うような間柄ではなくなったので、会った時にはまず近況報告から始まるのが最近のテンプレである。個人的に身の回りの話を聞くのもするのも大好きなので、もはや知り合いでなくても近況報告を聞きたいくらいである。
……それはちょっとおかしいか。


私が近況報告で上記したような内容を友人に話すとたいてい「偉いね」と言われる。私はこの「偉いね」を聞くたび、何とも複雑な感情になる。
昨年受講した社会福祉概論を担当していた、本職はソーシャルワーカーの大学教員の言葉が私の中で反芻(はんすう)する。(関係ないけど「反芻」って字面かっこいい)

こうして福祉に携わっているとですね、色んな人に「優しいね」とか「偉いね」とか言われるんです。でも僕は、ソーシャルワーカーとして働いていてですね、時折、支援を受けている人たちを「食い物」にしているな、と思うんです。

「偉い」という言葉を使うと、それ以外に「偉くない人」ができてしまうような気がしていたたまれない。
別に、日本文学を専攻しているから偉くないとか、コンビニ店員だから偉くないとか、そんなことはないはずなのに。(あくまでテキトーに選んだものなので深く考えずに…)
学問も、仕事も、そのカテゴリー自体は「偉い・偉くない」というベクトルからは外れた存在だと思っているから、「偉い」と言われても素直に喜べないのかもしれない。
単に福祉分野に興味をもっているだけなのに、さも偉いと思われたい(あるいは自分が偉いと思いたい)かのように捉えられる可能性への恐れもあるのだろう。(偉いと思われたい気持ちが1ミリもないとは言い切れないところが何とも人間のこころの複雑さよ…)

私は、福祉は「誰かが考えなければならない問題」だと思っている。他も基本的にそうだろうけど。
私みたいな一学生が何を成し遂げるわけでもないだろうが、私はそれでも考えたいから福祉を選んだ。それまでの私の人生において程遠い場所に置き去っていた「障害」や「介護」。学んでみれば多くの気付きがある。多くの誤解があって、偏見がある。その中には知らないからこその、ひどいものもあったりする。
高齢者が忌み嫌われつつある、障害者に対して根強く抵抗がある昨今(これもある種の偏見かも)。決して偏見を持つことや誤解することを否定したいわけじゃない。どちらもしょうがないことかもしれない。けれど、「しょうがない」と言って放っておくのは、あらゆることを誤解し偏見を持ったまま平気でいるのは、あまり良いこととは私には思えない。だから、この分野を選んだ。

「選んだ理由が偉い」と思ったかもしれない。(思わなかったかもしれない) 選んだ理由が大層なものかどうかなんて、あまり意味を持たないと思う。それこそ、大学にAOで入学したか・一般入試で入学したかみたいな、そういうちっちゃな違いにすぎない。
本当に大事なのはそこで何を得るかであり、私にとっても、福祉分野を学んでいて何を得るか、介護職として働いて何を得るかの方がよっぽど大事である。それもまた、他者には関係のない私の中での話だから、偉くもなんともない。


「特定分野を一所懸命に学んでいることが偉い」といわれるのとはまた違う話だと思う。だって、偉いと言ってくれる友人たちは、別の分野で一所懸命に学んでいるのだから。学んでいることを褒められるなら私も素直に喜ぶだろうけれど、最近自分に向けられる「偉い」はすべて「福祉だから」が絡んでいるような気がしてならない。福祉だからという意味であれば、私はちっとも偉くはない。

本当に「偉い」のは福祉分野に興味を持った人ではなくて、その分野で何か素晴らしいことを成し遂げた人だ。私みたいな、中途半端に学んで、勝手に苦しんだり、勝手に憐れんだりするような奴を指して使って良いような言葉じゃない。

私が偉いねと言われて素直に喜べないのは、罪悪感からだろう。
自分が本当は別に偉くないことを理解していて、それでも偉いと言われてしまうことへの。
少し前まで自分でも自分が偉いと思ってしまっていたことへの。
ここまで気付いていてもまだ、偉いと言われればちょっぴり嬉しくなってしまうことへの。


……「偉い」がゲシュタルト崩壊しそう。こんな漢字だったっけ?

ここまでつらつらと書いといてアレだけれど、まあ、友人達に関しては最初に書いた「会話の流れからして私が半ば強制的に言わせているようなものなのかもしれない」が的を得ているのかも。
だから友人達を否定したいわけじゃない。ただ、「偉い」と言われても素直に喜べない自分がいることを再認識し、それがなぜなのか、改めて確認してここに記しておきたかった。

「特別支援教育学の教授なら優しいだろうな」が後押しとなって現在のゼミに決めた自分への戒めのようなものとして。

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