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"かわいい顔"ってどんなだろう

ここタイでは、緊急事態宣言が6月末まで延長となった。一方で、先日幼稚園からは6月から授業再開出来るかもしれないという案内があった。うれしかった。3時間のみの午前保育という条件付きではあったけれど、それでも全然いい、どうかお願いします…と思った。ひとりきりになる時間がほしかった。
ところが今日、やはり政府から許可が下りないため、再開はまだ難しいとの連絡があった。一度期待してしまった分、落胆した。誰が悪いわけでもない、誰を責めることもできない状況が、余計に苦しい。

最近、娘に対して理不尽に怒ってしまうことが増えた。自分でもわかっている。そんなに怒るようなことじゃない。でも余裕がなくてイライラして、娘のちょっとした言葉や態度に過剰に反応してしまう。
そしてわたしが怒ると、娘は決まり文句の様に「ごめんなさい。もうしません。」と言う。わたしがそうさせてしまったのだと思う。でも、ごめんなさいの意味も、なぜもうしてはいけないのかも、ちゃんと伝わっているだろうか。まったく自信がない。"とにかく早くお母さんの怒りを鎮めなければ…" 娘にそんな風に教えてしまったのだとしたら、本当に情けない。

ひどい時は、謝ってきた娘に対して、そんな自分の情けなさも重なって、すぐに怒りを引っ込めることが出来ず、八つ当たりのように泣かせてしまう。そうすると娘は泣きながら「ごめんなさい。お母さん、かわいい顔して…」と両手をめいっぱい伸ばして抱っこを求めてくる。
そこでやっと気づく。こんな小さな体の子供を相手になにをやってるんだろうと、泣きたくなる。かわいい顔して…なんて、この時自分はどれほど醜い顔をしているんだろう。

怒っている母親に抱っこを求めるのはたぶん勇気がいるはずだ。でもこの抱っこすら、いつか怒りに任せて突っぱねてしまうかもしれない。その時はきっと娘を深く傷つけてしまうだろう。そんなことを考えながら娘の背をさする。
そして怒りすぎたことを謝る。すると娘はだいたい「いいよ…」と言いながら、わざとわたしの服で涙と鼻水を拭き、その後やっと、にまっと笑う。

他のお母さんはどうなのだろう。ついつい周りと比べてしまう。ママ友は言う。「わかる。うちも一緒だよ。」
なんだそうか、みんな一緒か、よかった。

ん?

なにがよかったというのか。
理不尽に子供を叱りつけていいはずがない。そもそも人と比べることになんの意味もない。
もちろん、苦悩に共感してもらえるという喜びや安らぎはあっていいと思う。実際、同じような状況下で頑張っている人の存在というのは心の支えになる。
でも、どうするべきか、どうしたらいいのかという答えは自分で探さなければいけない。自分に余裕がなくなる理由も、プツンとなるきっかけも、自分にしかわからない。自分ですらわからないこともあるけれど、自分で考えるしかない。そのためには、余裕のない醜い顔をした自分とも向き合わなくてはいけない。
でもこの、目を背けたくなるような自分の弱い部分と向き合う作業こそが、"人間を育てる"上で必要不可欠なのかもしれない。不完全な自分自身を受け入れてはじめて、不完全で当たり前の我が子を、受け入れ、育てていくことができる。子育てが、こんなにも自分自身と向き合うことだとは思わなかった。
そして当たり前だけれど、娘とわたしの関係は、娘とわたしでしか作れない。それは逃れられない重苦しい責任だけれど、今の自分にとって、これ以上の生きる意味はないかもしれない。

子育ては、正解もなければゴールもない。暗いトンネルを手探りで進む様なものだ。どこまでやっても、やらなくても、誰もなにも言ってくれない。だから悩む。でも悩んでいいのだ。悩むべきなのだ。完璧じゃなくていい。むしろ完璧じゃないことを自覚していた方がいい。人間はどこまでいっても未完成だ。未完成な親が、未完成で当たり前の子を育てる。2人の関係が完成することもない。うまくいかないことがあって当然だ。そういう自分を許そう。でも決して諦めず、一歩一歩前へ、明るい方へ向かって歩きたい。今は娘と手を繋いで。いつか離す時が来るこの手を、ぎゅっと繋いで。なるべくたくさんの"かわいい顔"を娘の記憶に残せるように。

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