ステイトメント、コンセプト、振付の階層構造と、ステイトメント

この3ヶ月くらい考えていたこと(の一部)です。思想の結晶としての作品(もちろん作品と名のつくものは基本そうなのだけど、今現在思考ゲームの議論に参加いくにはみたいな意味、このレイヤーであれこれ言う気は無いのでニュアンスで理解してほしい)を作っていくのに考えなければいけない思想のレイヤーというものがあって、それは現時点では僕はこういう構造かなと考えています、というものです。

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1.ステイトメント(Statement)・・・世界がどういうものだと考えていて、それに対して「何」を生み出そうとしているのかという宣言

2.コンセプト(Concept)・・・・どのような手段でその「何」を生み出すのかという手段の提案

3. 振付(Chreography)・・・使用するものに対するルール(僕の場合だと身体、もの、それらがどういうもので、どういった使い方・接し方をするのか、という「動き方を決めるための」ルールのリスト。)

それぞれ前例や社会情勢、リファレンスを取りながらただ自分の勝手な考えを積み上げていっただけ、にならないように。思想表現は自己表現ではない。

レイヤーとしてはこの順番だけど、0番目のレイヤーに「死生観(なぜ作るのか)」というやつがある気がする。というか書いた。けど別にこのレイヤーは見せるべきものではないし、見せられるものにならない気がする。(僕の場合は世界への「恨み」みたいな文章になってしまった。)

自己表現という行為も、その言葉でいろんなものを揶揄しようという姿勢がとても好きじゃない。「私ってこういう人間!」と「世界というものについて私はこう思う(もちろん限界まで熟考していることが前提)」って全然違うじゃん。

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それを踏まえて、最近組み上げたstatement。

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■Statement

世界は主体(身体)と対象(もの)から構成されている。私たちは身体を持って対象の形状や性質を見つめ、新しい関わり方を探し、接続する。私という個体、人間という種族の存続意義と向かい合った時の空虚な絶望感を癒すのは、世界と接続によって感じられる「身体の必要性」しかないと、幼少の頃より続けてきたジャグリングを通じて感じてきた。

だが現代ではそのように「もの」と接続する機会はどんどん失われている。我々の行動はキーボードやマウス、ガラスの板、ボタンを触ることに限定され、仕組みを知らずとも現象を起こすことはできる。あらゆる情報は信号となり、スクリーンの中に押し込められる。メディア技術の発展に加え、新型感染症の発生など、ますます身体の世界からの隔絶は進むだろう。例えば、視覚を用いて光を見るとき、同時に肌はその熱を感じているし、聴覚を用いて音を聞くとき、体はその振動を感じている。身体は総合的なセンサーであり、あらゆる体験は身体全体の体験であるはずだった。操作の自由度は急速に増したことは喜ばしいことではあるが、接続感やものから与えられる刺激が代替、限定されていくことには強い危機感を抱いている。メディア技術の発達には感謝しつつも、身体感覚の減退には自覚的になり、積極的に対象を見つめ、新たなものと身体との関わり方について考えるべきだと強く思っている。

横断歩道の白いところを踏んで歩くとか、右手を使ったら左手も使うとか、箸置きのような同じ形を見つけたら規則的に並べるとか、何か身体的な必要性に駆られてやってしまう行為がある。私はそれに強くこだわりを持っている子供だった。均整を失った状態や、好き嫌いや気分などに基づいて判断することは、超客観的な世界の原理から離れてしまう行為だと強く嫌悪感を抱いていた。そのため、客観性が歪められがちな「人間の集団」の中にいることは非論理的に感じられて耐え難く、周りと馴染めないことが多かった。だが、そのこだわりはジャグリングの論理性、規則性、リズム感とは非常に合致したようだ。気分や好き嫌いに左右されず、ものを、そして時には身体すら「形」と見なしてそれらの関わり方を探すジャグリングは私にとってもはや単なる技術ではなく、「ものと身体の関わり」を抽象化して考える視点として昇華されている。

ものと人間の身体の関係性をつかむこと、取り出すこと、作り出すこと。ジャグリングという行為を出発点に私はずっとそれを考えている。

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