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INTERVIEW FILE:三森 寛人

「妥協せず頑張るからこそ」

男の名は三森 寛人(みつもり ひろと)。神奈川県藤沢市出身・1995年6月1日生・藤沢翔陵高ー富士大学・背番号0・車掌兼捕手。今回はこの男の魅力に迫るべくインタビューを行った。

――昨年を振り返って

「あの試合を勝ったことはこれっぽっちも嬉しくない」今シーズンの初ミーティングで男は言い放った。「あの試合」とはシーズン最終戦で勝利し優勝を決めた試合のことだ。男は出場機会に飢えていた。

「最後の試合だけじゃないんですよ。シーズン通して悔しかった。チームとしては土台に乗ったとは思うのでそれはそれで喜ばしいことなんですけども。車掌研修等で離脱があったことはやむを得ませんが、自分がマスクを被っていない試合での勝利はやはり悔しいですね。3年目の今回はそれまでの失敗を活かし練習して良い感じだったからこそ」と、もどかしさと次への意欲を溜めこんだ表情で語る。

――失敗とは

「2年目、守備はできて当然でチームに貢献するためには打撃力向上だと考え、そちらに練習のウェイトを置きました。ただ、試合で守備のミスなどが増え『勘違いしていたのかも』と思うようになりました。3年目の今回は八戸在住ですが時間が許す限り盛岡へ行き、捕手練習は毎回欠かさず、居残り練習でやり残したことがないように取り組んできました」

――高校時代

男は藤沢シニアでの活躍が認められ、藤沢翔陵高校に特待生で入学した。

今でこそ筋肉キャラが定着している男だが、高校入学当初はまるまると太っていたという。強肩強打の捕手として1年夏には早くもベンチ入りを果たしたが、「どこか高校野球のスピード感についていけてなかった」という。それから三塁手、一塁手とコンバートが続いた先の2年秋。監督に「捕手で闘いたい」ということを志願した。同時にキャプテンにも任命された。

監督はとても厳しい方だったという。ただでさえ監督とキャプテンという立場に加え、担任(2,3学年)とクラス委員長という間柄でもあり、多くの時間を共にした。そんな当時を思い返すと「社会に出てから困らないためのものだったんだな」と厳しさの意味を知る。

3年春県大会は小坂井捕手(現TDK)を擁する日大藤沢に敗れ、3年夏県大会は当時1年生の小笠原投手(現中日)に抑えられ東海大相模に敗れた。ともにベスト16という戦績だった。

<左から(敬称略):川島隼人(湘南工科)・金子一輝(日大藤沢)・辻川洋資(日大藤沢)・三森寛人>

「やりきりました。負けたことは悔しかったですが、最後の打席でセンター前ヒットを打ったことを燃料に燃え尽きました」と語る。それでも大学野球ましてや遠く岩手の地で継続するに至ったのはなぜだったのか。「しばらくしたら野球熱は再燃していました。以前から豊田さん(当時富士大学監督)に幾度もお誘いを受けていて、当初は断っていたのですが再燃してからはすぐに行くことを決めました。両親は富士大に行くことを渋りもせず背中を押してくれました」と熱烈アプローチが男の人生を動かした。

――大学時代

結果から言うと男はリーグ戦に一度も出場することなく大学野球を終える。

小中校と中心選手だった男にとってそれは屈辱だったはず。「同期だけで57人いました。まず最初に一番ヘタクソだなと感じました。でも挫折感というよりもワクワク感でいっぱいでしたよ。当時は1年生だけで試合が組まれるなどモチベーションを保つシステムもしっかりしていて、高校生相手に負けて恥ずかしながら罰走を経験することもありましたが、ずっと張り合いはありました」そうして2年夏にAメンバー入りを果たす(Aメンバー≠リーグ戦メンバー)。

「結果的に大学のピークはそこでしたね。2年冬の渡嘉敷島キャンプではB班の第2グループとなり落ち込みました。その時お世話になったのがB班を統率していた佐々木コーチ(仙台育英ー山梨学院ーフェズント岩手)でした。下の世代にもどんどん素晴らしい選手が入学してくるしで、技術と気持ちの整理がつかないところを親身になって紐解いてくれたのが佐々木コーチでした」と、どん底でも手を差し伸べてくれる人がいた感謝を語る。男がさらに人間関係の重さを知るのはもう少し先となるが――。

「3年秋の大舘トーナメント大会で引退し、就職活動に専念することにしました。内定をいただくまでの7か月間・毎日10時間勉強しました。生まれてそんなに勉強したことがなかったので、大好きな筋トレも忘れるぐらいとにかく辛かったです。村上投手(現JR盛岡)と一緒に勉強していましたが、彼が居たから頑張れた部分が大きいです。この経験があればこの先どんなことでも頑張れそうな気がしました」

無事内定が決まり、引退したはずの男は練習復帰をすることとなる。「普通引退した選手が戻ることはないのですが、首脳陣の御厚意で内定後は復帰して練習に参加させていただきました。復帰前は恥ずかしかったはずの後輩に指導を仰ぐことが、復帰後はなんの恥じらいもなくできたのは不思議でしたね。4年夏には引退している身でありながらB班でオープン戦に出場させていただくなど感謝しかありません。それでもどこか心の中に引っ掛かりはあって。野球をするために富士大にきて、4年秋までやりきるつもりが3年秋で引退。これが自分のなかで『やりきれなかった悔しさ』として残っていました。これがJR盛岡で野球を続ける燃料にもなっていますね。同大先輩の斎藤選手(現JR盛岡)が居ましたので仕事と野球をできる魅力は知っていましたから」

――JR東日本盛岡支社入社

第一印象は「試合出れるチャンスあるじゃん!と感じた」と正直に語る。かねてからの慢性的な捕手不足からコンバートによりその穴を補っていたJR盛岡は生平鷹秀捕手(盛岡大・当時3年目)の加入によりようやくそのポジションが埋まるという状況だったのだから、そう感じるのも無理はなかった。そうして出場機会を得た男はまるで水を得た魚、プロテインを得た筋肉、鏡の前のマッチョの如く活き活きとしていた。先輩の生平捕手も「切磋琢磨する相手ができてよかった」と当時語っていた。

――仕事と野球の両立について

「正直最初は野球のウェイトが強かったです。とにかく練習がしたかったので呑み会なども断ってばかりでした。最初は営業知識など仕事で覚えることも多く大変でした。語弊を恐れずいうならば、仕事で手を抜くと影響が大きいことを身に染みて感じました。そこから我々が野球をやれている意味や応援してくれる人の存在などを意識するようになりました」と失敗を率直に語れるところに男の成長がうかがえるのではないだろうか。

「シーズン中はどうしても休みをもらう機会が増えます。だからというわけではないのですが、オフ期間はなんでもやります!と思っていますし、勤務担当に困っているようならぜひ声掛けてくださいと言っています」と欠くことのできない乗務員としての責務と社会人野球選手としての存在意義を語る。

――技術面での進化は

「大学時代の経験が大きいですね。同期には小林遼選手(現ENEOS)がいたので捕手として一緒に練習したくさんの技術を盗みました。他にもNPBや強豪社会人に進むレベルの投手がいたのでキレの良い変化球への反応など良い経験値になりました」

――俺のここを見てくれ

「キャッチャーとしての立ち居振る舞いですね。ブロッキングには自信ありますがそれだけでなく立ち居振る舞い。4年目なのでもう頼る立場じゃないですし、元気キャラだけでもないことを示したい。リーダーシップを発揮します。目標は全試合全イニングでマスク被ること。若返りなどは考えていなくて後輩の菊地大智捕手(大東高)にはチャンスも与えないし、先輩の生平捕手もモタモタしているようなら引き摺り落とす覚悟です」と語気を強める。

――エピローグは見えているのか

「当初、野球をやれるところまでやったら異動によって関東に帰るつもりでした。しばらくはその思いが強かったのですが、いつからかお世話になった人に還元したいと思うようになりました。ふと思い返すと私はたくさんのヒトに助けられてきたことに気づきます。野球部を中心にそういった人間関係があるので大事にしたいです」と岩手に愛をみつけた様子で語る。

――オススメの選手を教えてください

同期入社の4人です。長鈴投手(東北学院大)はこれほど投げたい球を理解できる投手はいないなと思います。村上投手(富士大)とは喧嘩もしますがそれは相手も自分に心を開いている証拠ですし、お互い譲らないのは長鈴投手とは違った味があります。木下投手(一関学院高)は高卒入社で年下なので可愛がっていますが実力は上がってきています。三浦選手(盛岡大附高)は単純に贔屓目です」と、それぞれの誕生日にはプレゼントを贈る仲の良い同期ぶりをアピールしていた。

<左上から時計周り:三森・河内山(現堺シュライクス)・長鈴・木下・三浦・菊地大智>

――最後に一言

「恥ずかしながら時間経過とともに社会人としての責任を感じるに至りました。そのうえで、仕事をしながら野球ができるというのは最高です。どちらも妥協せず頑張るからこそ応援されて、それがチカラになるんだなと。今回はインタビューありがとうございました!」


三森寛人という男、いかがだったでしょうか。過去・現在・未来を紐解くと、そこにはヒトとの関わりが魂を大きく強く育てたことが分かりました。筋肉キャラ・元気キャラとしてムードメイカー的存在ですが、今年はひと味違った自分を魅せたいと燃える男の一挙手一投足にぜひご注目ください。


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