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INTERVIEW FILE:中澤 優也

「1回のチャンスを1回で」

男の名は中澤 優也(なかざわ ゆうや)。岩手県矢巾町出身・1997年8月27日生・背番号5・駅員兼外野手・盛岡第四ー東北福祉大。今回はこの男の魅力に迫るべくインタビューを行った。(閲覧注意:手術痕写真掲載)

男の社会人デビューシーズンは鮮烈だった。公式戦で先頭打者本塁打2発・打率.380・出塁率.480をマークするなど新人ながら打撃陣を牽引した。それだけでなく抜群の走塁感覚、捕殺や進塁の抑止力としてその強肩を魅せつけるなど走攻守でチームを鼓舞する存在となっていた。

――東北福祉大学時代

高校OBのススメもあり練習会に参加し、名門・東北福祉大学硬式野球部の門を叩くこととなった。やはり一般入部選手は多くなく、ましてや公立高校出身の立場ともなれば不安も多かったのではないだろうか。「不安は確かにありましたが4年間あればなんとかなるのではと思っていました。高校通算18HRのうち16HRが2年秋以降のものでまだまだ成長する余地を感じていましたし、自信がなかったわけではなかったですね」と端正な顔立ちでクールに語る。

男の学部は「総合マネジメント学部産業福祉マネジメント学科」で大半の部員とは違った。そのため講義時間の都合により、通常練習や紅白戦には参加出来ずといった状況も覚悟しなければならなかった。「夜間練習で練習量を補っていたのでそのあたりは問題ありませんでしたが、紅白戦などに出ないと結果すらも残せないのでベンチ入り云々以前の話でしたからもどかしかったですね」と感じつつも日々高いレベルでの野球に喜びを感じていたという。

そんな矢先、男は立て続けに不運に見舞われた。

1年秋:”左手首疲労骨折”

打撃練習で違和感を感じ念のため病院へ向かうと診断結果は残念なものだった。「気づかずに診察すると疲労骨折という診断でした。骨変形ということで足から軟骨の骨移植を行いました。治る見込みがあると聞いていたので不安はあまりなく焦らず復帰を目指そうと思いました。10月に手術を行いリハビリを経て約6か月後の3月に復帰しました」と語る。

2年秋:”肘の遊離軟骨と神経移行”

「遊離軟骨はよく野球人なら聞くやつですが、それよりも神経は切れる一歩手前だったらしく危険な状況でした。神経を肘の内側に入れる手術を行いましたがさすがに今回は厳しいかなと思いました。意外にも回復は早くて11月上旬に手術し12月末までは肘が伸ばせない状態でしたが、約3ヶ月で復帰。2年冬のLAキャンプには間に合いました」と語った。

<上段真ん中:男>

そのLAキャンプで男は暴れた。「現地の紅白戦で結果が出ました。たしかチームで一番打ったんじゃないですかね。その後の遠征メンバーが決まっていく大事な実戦だったので嬉しかったです。ただ、その後の関西遠征で結果が出ず関東遠征メンバーからは漏れてしまいました」と悔しさを思い返す。

「そこからはA班に参加しながら打撃投手など裏方としても活動していました。一般入部という立場なら1回のチャンスを1回で仕留めなければならかったと殊更に痛感しました」というと少し間をおいて「あの時はさすが精神的に堪えて親に連絡しました。周囲の選手が凄いのもあり、辞めないけど無理かも知れない」とネガティブな思考に陥ったことを語った。男の家族は野球応援に熱心で中高はずっと試合へ応援に来ていたそうで、大学時代も紅白戦があると聞けば仙台まで駆けつけてくれていたとのこと。それだけに家族が楽しみにしている期待に応えられそうにない状況は辛かったのだろう。

それでも男は腐らず自身を磨き続けた。3年春、チームは全日本大学野球選手権を優勝。14年ぶり3度目の日本一となった。「津森(現・ソフトバンク)や仲の良い選手が活躍していたので素直に嬉しかった」と語るところに性格の良さが滲み出る。そんな3年春、「寮に個人成績を貼り出すようになったんですよね。それまでも成績管理はしていましたが選手全員の目に触れる場所にはありませんでしたから」とチームには変化があったという。キャンプ後、仙台に戻ってから企業チーム相手にも打っていたので成績は良好だったという。そんな折、貼り出された成績を見た後輩から「先輩はなんでこの成績で試合出れないんですかね?」と言葉をかけられることがあった。先輩としてネガティブな言葉は発したくなかったこともあり「もっと打たなきゃダメだんだよな」と気丈に振る舞うも内心は「どうしたらいいか分からなかった」と語った。

4年春。全国連覇を狙ったチームは準々決勝で敗戦。その敗戦を受け、チーム方針として『レギュラーはすべて白紙。守りは当然だが打てない選手は使わない』という言葉が全選手に伝えられた。「ここが最後にして最大のチャンスだと思いました。8月に北海道でJR東日本や亜細亜大学ら強豪企業や強豪大学が参加するタンチョウリーグがあり、その結果でメンバーを決めると。そこへ向けて仕上げ最後のチャンスをモノにすべく死にもの狂いになりました」と大学野球のラストスパートを懸けた。


10打数6安打。


打率チームトップ。


男は結果を残した。

しかし、男が仙台六大学野球リーグ戦でベンチ入りすることは、4年間でたったの一度も叶わなかった。

「そこで結果を出せばという思いでやってきましたから本当にショックでした。辛いことはたくさんありましたが大学野球でこの時が一番辛かったですね。正直納得ができず監督に直接理由を聞きにも行きましたが、今後は手伝いに回って欲しいということで現実を受け入れるに至りました」とプレイヤーとして大学野球引退への道を選んだことを語った。これが名門・東北福祉大学硬式野球部のレベルの高さで伝統的な強さたる所以なのだろうか。

――JR東日本盛岡支社入社

男は活躍の場を社会人野球に求めた。長鈴投手(JR盛岡/高校2学年先輩)に声をかけられていたこともあり、仕事による地元への貢献や野球継続可能を魅力とし入社を決めた。その後の活躍は冒頭でも述べた通り、素晴らしいの一言。コロナ禍の煽りを受け、チーム関係者&家族のみ観戦可能な大会に男の家族は駆けつけた。特に祖母は熱心に応援しその活躍を見届けた。これも立派な親孝行・恩返しのひとつだろう。

「大学時代に比べれば練習量は少なくなりましたが、仕事でカラダは使わないので帰ってきてから時間もあるので、やりようによっては十分に練習できると感じています。ただ意識は変わりましたね。時間をかけてやるのではなく、重点的にやることを意識しています。例えば、素振りならば再現性を最重視します。毎回このスイングができたら終わり、と決めているスイングがあるので1時間かかるときもありますが10分で終わるときもあります。再現性を出すためにしっくりくるまで練習します。再現性さえできれば次の練習にチカラを注げますから」

――打席での意識

「打席ではボールを強く叩くことを意識しています。フライで凡退したくないですが、かといって当てにいくのも嫌です。打順は1番だと繋ぐ意識が強くなるし大きいの打ってもしょうがないので、3番がいいです」と監督へのアピールも忘れない。

――技術的には

「高校時代は構えでヘッドが投手にむかうぐらい入っていましたが、大学時代に指導されストレスのない打ち方を考えました。動きを削っても違和感がなくそれがムダな動きだったのだと気づき、今のカタチに辿り着いています。こだわりがあるとすれば打席に入るルーティンは中学時代から変わっていませんね」と、はにかんだ笑顔をみせた。

――ここをみてくれ

「僕って特徴ない選手ですよね。走攻守で秀でているものがない」と謙遜しつつも「スピンの利いた送球ですかね」と言葉を足した。

男は高校時代エースとしても活躍しており、当時最速143km/hだった強肩から放たれる送球は圧巻で、右翼からの三塁送球や本塁送球はそうそうお目にかかれる代物でない、かどうかは是非ご覧になって確認していただきたい。どちらにせよ肩の強さだけではなくステップワークなども試行錯誤したうえで辿り着いた武器だと語る。

――将来的な選手像は

チームのために最後の努力をできる選手になりたいですね。具体的には、引退する2年前ぐらいからは指導にも力を注ぎたいです。引退して指導者という立場は向いてそうにないので一緒にプレーしながら教えたいですし、その個人や場面にあった指導をしたいです」とチーム発展の将来を見据える。

――オススメする選手は

「盛岡第四高校の先輩ふたり(寺田投手・長鈴投手)ですね。向上心と探求心が凄いんですが、試合になるとある程度割り切ってサバサバしているというか。一緒にやっていて楽しいんですよね」と語るので、忖度がないことを確認した。


以上。中澤優也という男、いかがだったでしょうか。過去・現在・未来を紐解くとそこには挫折に直面するたびに心を育て、順応性を高めていることが分かりました。社会人野球で活躍の場を得て、改めて野球の楽しさを噛みしめる男の一挙手一投足にぜひご注目ください。

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