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INTERVIEW FILE:田上 諒

「知ること・やること・流されないこと」

男の名は田上 諒(たがみ りょう)。岩手県盛岡市出身・1989年12月21日生・盛岡大附高ー盛岡大・背番号11・運転士兼投手。今回はこの男の魅力に迫るべくインタビューを行った。

――大学時代

当時、盛岡大学は北東北リーグの2部に所属していた。2学年になると男はリーグ戦で先発投手を任されるようになった。「1学年時は制球難で貢献できませんでしたが、2学年では上級生の投手陣が人員的に手薄となったこともあり半ば強制的にその役割となりました。ただ、凄い球速やキレる変化球がなくても打ち取れるということを先輩投手から教えていただき、そこからは打者への攻め方や打ち取り方が分かってきて抑えられるようになりました」と語る。盛岡大附高校時代、3年夏ベスト4とチームは健闘するも自身は出番がなく3、4番手という立場だったという。大学進学後も自身のセールスポイントが分からずどこか自信がなかった男が、助言により「球速帯を集束させる」ことによって打ち取る術を得たのはこの時だった。

2年春2部リーグ優勝を果たすも入替戦で敗退。迎えた秋、2部リーグ優勝し入替戦も突破。念願の1部リーグ昇格を果たす。男の本当の戦いがいよいよ始まった。

3年春。前年度神宮大会準優勝の富士大学を相手に先発し3-2で勝利。大金星だった。

「これは自信になりました。僕もチームも1部でどのような戦いが出来るのか不安でいっぱいでしたから」

その春、チームは5位で1部残留を決めた。このシーズンは塩見投手(現楽天イーグルス)や秋山選手(現レッズ)を要する八戸大学がとにかく強かった。秋はコールドゲームでことごとく相手を沈めていったが、唯一コールドできなかったのが男の投げた試合だった。「負けはしましたがこれも自信になりました。秋山選手は9打数1安打に抑えましたし、改めて球速がなくても変化球が凄くなくても通用する投球はあると感じました」具体的には。「まずは依然と違って制球を乱すということがなくなったことで投球全体がラクになりましたね。そこからは自信持って腕を振れるのでインアウトの出し入れだけを意識しました。パワーや変化の大きさを求めては自分のスタイルが崩れることを分かっていましたから」と語る。これら活躍が認められ「東北地区三連盟野球対抗戦」に選抜された(3年,4年)。

<上段最左が男>

4年春、盛岡大学は進撃した。男は八戸大学から大金星を挙げるなど4勝2敗と貢献し、チーム成績5勝4敗1分で3位となり10年ぶりのAクラス入りを果たした。秋は、1部残留確定に加えて教育実習が重なったこともあり最終週を残し引退。男の大学野球が終わった。

――JR東日本盛岡支社入社

「もともと仕事しながら野球は続けたくて、オープン戦でも交流があったJR盛岡を目指しました。入社直後の配属は八戸駅。盛岡に通いながらの練習でしたが、当時八戸在住の先輩も多く苦ではありませんでした。さすがに練習量の確保は大学時と同じくは当初はできませんでしたが、仕事慣れしてきた3年目あたりから時間管理の仕方も分かってきて体調も上昇してきました。そういった状況をやりくりして強豪社会人と戦えるのはやりがいがあります」

盛岡大学のエースとして活躍した男だが、入社後はワンポイントリリーフや当時では珍しいオープナーを任されることが多かった。2020年で31歳、すでにベテランの域に達しておりこのまま選手としてピークアウトしてしまうのかと思われた男に転機が訪れたのは8月終わりのことだった。

ご縁により片山純一臨時コーチ(元JR東日本)を強化練習へ招くこととなった。そこで男が告げられたのは『サイドスロー転向』だった。「シーズン当初からオーバーの感覚は悪くなく例年以上かもと手応えを感じていました」と当時の感覚を振り返る。「その感覚もあったので、いきなり来た人に何故そんなことを言われなきゃならないんだと思いました」と当時の不服さも語る。

当時同時に招聘させていただいた山口将司臨時コーチ(元JR東日本)は「本社野球部にも凄い方々が臨時コーチとして来ることはあるが、合う合わないは正直ある。俺の何が分かるんだという気持ちも当然ね」と語っていたことを思い出すと、男がそういった感情に陥るのも無理はなかった。

「すぐに受け入れたというよりは次の大会までの時間がなくとりあえずは試してみることにしました。すると打者陣の反応が思いのほか良く、やってみようかなと踏ん切りがつきました」と苦渋の決断だったことを口にする。

高校2年秋から半年ほど、制球難で腕を下げて下げてついにはアンダースローを経験するも球威がなくなり再度オーバーへ戻った経験が男にはあった。「2~3週間は苦戦しました。片山さんに教わったときはアンダー寄りだったのですが、打者の反応も見ながら腕の位置を修正しました。今はスリークォーター寄りのサイドですかね。先輩の寺田さんから軸足が遠回りして力のベクトルが集約しきっていないことも指摘されたので改善するようにしました。そうやって試行錯誤していくうちに出所の見づらさと球威を両立していけるようになった感じはします」と語るように、チームの誰もが「別人」「良くなった」と口を揃えるほど球筋は見違えた。その後の活躍は目覚ましく自身キャリアハイともいえる成績を残した。

オーバーには戻さないのか、と敢えて意地悪な質問を投げかけた。「ないですね(笑)今のフォームが馴染んでいますし、ラクに投げられている感覚があります。ただ自分には決まったフォームがなくて、その日の球質や体調で判断して微妙に変化させていく≒それが自分のフォームという考えです」と断言した。

フォーム変更といった大きい部分ばかり目にしがちだが「練習内容は大好きだった有酸素を辞めて瞬発系に比重を置きました。筋トレは重量を持つようにしたら出力が上がりました。初動負荷トレのおかげで同じポジションにカラダを置けるようになり再現性が高まりました」「昔は疲れたらそのまま落ちる一方でしたが、今は疲れて脚が使えなくなったら体幹使ってカバーしていこうという考えができるようになりました」と語るように、キャリアハイには地道なトレーニングと意識改革により縁の下のチカラを蓄えていたことも影響していた。

――若手選手へ伝えたいこと

なにかと話題のランニングの是非について聞いた。「基礎体力がない選手はやるべき。基礎体力がないとどうにもならない。ミドルやショートダッシュは省けない種目です。投げ込みも頭で理解できてカラダですぐ表現できる人はいいが、そうでないなら必要。この時悪い球を繰り返さないという意識はすごく大事」と持論を展開してくれた。「『知ること・やること・流されないこと』が大切だと伝えたいですね。若手にはその時間があるし失敗してもいいから貫いて欲しい」と普段ではなかなか見られない真面目な顔で語る。

――エピローグはみえているのか

「『時間は有限 努力は無限』を座右の銘としてここまでやってきました。大学時代もアルバイトや教育実習をしながら部活をしていました。昔も今も強い相手に勝つためにはそうやってやるしかない」と自身の芯を語り、こう続けた。「チームの戦力にもならず子どもが生まれたタイミングでもあったので、本当は昨年辞めるつもりでしたが結果が出ました。やってみないと分からないものだな、と思いながらも最後のオープン戦を引退試合と決めていました。それが雨天中止となりこれでは後悔するなと続行を決意。幸い家族も応援してくれているのでそうしてくれる以上は頑張りたい。寺田さんには『左の後継者育てるまで辞められないからな』と言われていますし(笑)サウスポーの学生さん入社・入部お待ちしています!」

――オススメの選手は

昭和生まれの3選手(関口・寺田・日向端)をオススメします。ムダに長くやっていませんし、長くやれている理由が見えてきますから。昭和生まれのベテラン選手が頑張っている姿をぜひ見て欲しいです」と平成元年生まれが語った。


田上諒という男、いかがだったでしょうか。過去・現在・未来を紐解くとそこには助言を結果へ昇華させる思考力と実行力により、芯のある魂が育っていることに気づきました。社会人野球選手としていよいよ成熟してきたこの男の一挙手一投足にぜひご注目ください。



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