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INTERVIEW FILE:宮 順之介

「男の居場所」

男の名は宮 順之介(みや じゅんのすけ)。岩手県盛岡市出身・1993年6月17日生・背番号7・一関学院高・運転士兼車掌兼外野手。今回はこの男の魅力に迫るべくインタビューを行った。

高校野球が教えてくれたこと

男は2年夏にセカンドで甲子園出場。主力だった。

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2年秋にはキャプテンに就任し県準優勝。3年夏は3回戦で敗れるもチームメイトから「最後が宮で良かった」と言われる人格の持ち主だった。スポーツ雑誌・Standard岩手では2011年高校野球ベストナインにも選出された。

当時98名の部員を主将としてまとめあげた心境を男はこう語る。

「野球で勝つ=全員が同じ方向を向くことだと考えていました。しかしこれだけの人数がいるとそうもいかないんですよね。その時に『1人や2人違う方向を向いている人がいた方がそういった人間をどうやって取り込んでいくか考えることで結果的にチームのチカラをあげる』という言葉に感銘を受けました」

それまでは思い通りにいかない場合イライラすることもあったらしいが、思考方法を変えてからは「どうしたら変えられるだろう」とポジティブな悩みになったという。

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運命のいたずら

当時、JR盛岡硬式野球部はまだまだ黎明期。企業チーム相手に大量失点を防ぐ戦いが主で、個人としてもチームとしても弱く薄いという状況だった。それゆえに「男が入部する」という情報は部内をすぐさま駆け巡った。

男を心待ちにする周囲のそんな気持ちとは裏腹に「自分が思っていた社会人野球とは違うな。技術面やもっと厳しい環境かなと思っていました。慢性的な人員不足も感じましたし本当にここでやっていけるのかな」と当時の印象を語った。

慢性的な人員不足が男をさらに苦境へ追いやる。当時のチームは「誰を使うか」ではなく「誰が使えるか」という状況。特に肩痛など故障による捕手不足は深刻だった。守備の要となる捕手。その大事な役割を2年目を迎えた男に任せることとなった。

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「これまで色々なポジションをやってきましたが捕手はほぼ未経験でした。個人的には楽しかったのですが、僕なんかが捕手で投手に申し訳ないという気持ちもありました」と語るが、男の存在が投手陣に勇気を与え続けたのはいうまでもなく、強豪企業チームにも臆せず向かえるようなマインドを植え付け始めていた。

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そんな折、大越選手(岩手大学)が入部。即戦力の内野手としてチームを牽引した。内野手として活躍してきた男にとって、同様のポジションの存在はどのようなものだったのか。

「悔しくはありませんでしたね。チームの核になる選手が来たなというか、必要なピースが揃ってきたなという感覚でした」と純粋にチーム力向上を嬉しく感じていたという。

5年目。生平選手(盛岡大学)の入部により男は内野手へ戻ることとなった。そこでは今までと違う感覚が男を襲った。

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「うまくいかなくて...大好きだった守備が嫌いになっていました。怖くなっていましたね。怖い分待って固まる。固まるからリズムで捕球できなくなって」とブランクが及ぼした違和感を語り、この時ばかりは内野手としてハツラツにプレーする大越選手を羨ましく思えたとも言う。守備の狂いは打撃へも伝染した。

「打撃は4年目ぐらいまでは好調と感じていて、このまま練習していけばもっとレベルが上がっていくのではと思っていました。当初から5年目で大卒社会人の同い年選手には負けないように取り組んでいました。大学4年間で培える時間は羨ましく思いますが、自分の今の環境を言い訳にはしたくありませんでしたし」

「そこから打撃は低迷しました。練習不足か試合勘が鈍ったのか。それでも先輩たちはそれを乗り越えてやっているので僕は何をしているんだろうというジレンマを感じていました。一番は選球眼が悪くなってきました。そのせいかカットが出来なくなってきましたし、若い頃に比べて三振の数が倍以上に増えているんですよね」と変化を語る。

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「正直、それまでは俺もやることやってきたというプライドがありました。今はチームメイトに良いお手本がいますから技術や感覚を聞くようになりました。普段の練習では『キャッチボールで必ず足を動かす』ことを特に意識しています。次の動作にも活きますし、リズムが生まれます。そうやってリズムを大事にしていたら打撃もリズムが大事ではと思うようになってきました」と守備のリズムが打撃へ波及してきていることを教えてくれた。

「昨年都市対抗二次予選で対戦した櫻糀投手(JR東日本東北)が小柄ですが凄い球を投げていました。ああいった投手を打たないとその先はないので喰らいつきたいですね」と来季への意気込みを語った。

仕事と野球の両立

「仕事をきっちりしないと野球はできないんだよ、と後輩には伝えたいですね。今思えば恥ずかしいのですが、入社当時は右も左も分からず好きな野球を頑張っていればいいかなと思っていた自分がいましたからなるべく早くそれに気づけば好循環が生まれると思います」

現在JR盛岡硬式野球部では洋野エモーション(≒沿線住民による列車歓迎イベント)の恩返しとして洋野町のスポーツ少年団を対象に野球教室を行っている。

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「現在八戸勤務となってより野球教室など地域貢献の意義を感じています。プロ野球選手ではないですから技術的にどうこう言うことはできないですが、せめてもの気持ちを野球で表現できる。自分の好きな野球が恩返しのツールとなることは幸せですよね」と仕事と野球の両立する意義を感じているという。

座右の銘

男は好きな言葉として高校時代のグラブにも刻まれた「栄光に近道なし」を挙げた。高校へ特待生で入学するものの出場機会には恵まれず泣きながら練習したこともあったという。その時に大切にしていた言葉、それが栄光に近道なしだった。

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男は後輩への言葉を続ける。

「『今しかできない』と今になって思います。教材はたくさんあるし、吸収できるチャンスなのにやれていない子が多いのはもったいないと思うんです。ベテランと一緒の練習ではダメ。ベテランが50やるならば100やる。それが今しかできないことのひとつでもありますから」と自戒の念を込めているようだった。

新たな居場所への挑戦

男は今季から外野手として生きていくことを決めた。

「良い意味でもうプライドなんてないので、コンバートには抵抗なくチャンスならばやらせていただきますという気持ちです。10年目のシーズンでどこかマンネリ化しそうで、このままでは野球選手として上に行けないのではないかとも感じていたので丁度良かったんですよ」と心境を語る。

チーム事情で捕手も外野手も任せてしまうのはそれだけ男の野球センスにチームが頼っていることに他ならない。筆者はそれが男の野球人生にとって本当によかったのかと思慮してしまうこともあると伝えた。それに対して男は「明るい未来しかないですよ」と一言。運命を受け入れ前に進む姿がそこにはあった。

オススメの選手

「一関学院の3選手(木下暖貴・千田涼太・佐藤颯弥)です。母校の練習の厳しさは知っていますしそこで鍛えられた根性はここでも通用するはずです。特に木下はホテルマンとして八戸で働きながら頑張っています。チーム学院の活躍を見ていてください」


最後に――。

男はやむにやまれぬ事情から一度退部したことがある。その最中に観戦した都市対抗野球。スタンドから観るかつて共にプレーした仲間たちの姿は格好良くて仕方なかったという。涙をこらえ帰宅しランニングや素振りをしたという。野球をやるわけではないのに。その後、同世代部員の熱烈な説得を受け、やむにやまれぬ事情を解消し野球部に復帰する。

誰もが思った。

男の居場所はここだ、と。

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宮順之介という男、いかがだったでしょうか。過去・現在・未来を紐解くとそこには、犠牲心が人格を着実に育ててきたことに気づきました。円熟期を迎えなお挑戦する男の一挙手一投足にぜひご注目ください。

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