大喜利 100yen note

2022/8/17 無料化
2015/3/7 7.答えている体でボケてください 追記
2014/8/18 6. 追記
2014/6/21 5. 追記
2014/5/24 公開開始

1. 自戒的でもある“あれからこれまで”のおさらい

アマチュア大喜利イベントの転機としてよく言われるのが
『大喜利実力判定考査2010』(http://poaro.com/oogiri/)
なんですが、改めてこれの何が転機だったのか、何が楔たりえる要素なのか。
当時を知らない人も、アマチュア大喜利そのものを知らない人も多いと思うので、主観的になると思うけど簡単にまとめてみたい。
主観的であり、当時まだオフ会に参加してるだけの大喜利ウォッチャーでしかなかった自分の目線での、その頃。

その当時ざっとあった主要大喜利系イベント及び団体はこんな感じ。

・POARO大喜利 http://blog.livedoor.jp/poaro_oogiri/
…実力判定考査の主催であるPOARO、またはそのお二人のネットラジオ「あと何分あるの?」周辺の人達で2004年頃から形成された大喜利会
「POARO大喜利」という名称自体や、その線引きにも色々説明しづらい部分があるけど割愛

・オフ喜利 http://offgiri.jugem.jp/
…今でこそ死語となっている人気“テキストサイト”の管理人達が「オフラインでも本当に面白いのか」を検証する、というコンセプトで2005年頃から始まったイベント
当時素人の大喜利イベントと言えばオフ喜利は外せないし、オフ喜利しか知らないなんて人もザラだったんじゃないかという大人気イベント

・大喜利天下一武道会 http://www.oogiri-1.com/
…誰でもエントリー可能&エントリーした人は全員に壇上に上がれる、という形式の大型アマチュア大喜利トーナメント
と書くと最近の流れを知る人には何でもないように見えるけど、こんな形式、当時は天下一以外あり得なかった
今も継続して年一開催されている

・ハガキ職人ナイト! http://hagaki-night.cocolog-nifty.com/
…厳密に言うところの“大喜利”イベントではないものの、当時も今も「ハガキ職人」というちょっと特殊な「面白いことを考える人達」にスポットを当てた唯一無二のイベント
今も継続して定期開催されている

・その他数人規模の大喜利会がいくつか

ざっとこんなところ、で、だ。

これらの間に交流と呼べるようなものはほぼ無かった、少なくとも今みたく「今度こっちにも出て下さいよ」とか気軽に言い合える土壌ではなかったと思う。
理由はいろいろあるのかもしれないけど、当時を体験してきた僕の実感として思うのは、アマチュア大喜利という一つのシーンであるとか、自分達がそういう「団体である」とか何がしかの「界隈である」とか、そういう意識すら芽生えないほどみんな自分達のやる事に手探りだったんじゃないかということ。
こんな「楽しい遊び」を始めたそのスタート地点にはやはり「その昔テレビで視た、ラジオで聴いたアレ」という、『ひとりごっつ』であったり『内P』であったり『深夜の馬鹿力』であったりする原風景があって、それを進めた先にはやはり「アレと同じ形」の、お客さんに向けて発信するイベントがあった。
とは言え、素人がお笑いのイベントをやる事そのものが、前例がほぼ無く、未知で、怖かった部分もあったんじゃないかと思う。
だからこそ、そのハードルを超えて小屋を沸かせている人達はかっこよかったし、舞台は、壇上はすごいところだったし、自分の関わるその場所を成立させるので精一杯だったんじゃないかなと、そんなふうに推測してみる。
それらを横でつなげていこう、というのは、なかなか骨の折れる事で『大喜利実力判定考査2010』というイベントは、その大舞台は、そこらへんの「めんどくせえな」を吹き飛ばす起爆剤になったんだろう、ともかく大喜利をやっていてこれをリアルタイムで味わえた世代は幸福だと思う。

更に幸いにも僕は判定考査を「内側」から一部始終見る機会に恵まれて、メキメキと壁が壊れていく音を聞くことができた。
何がどうなったのか、自分の視界に対してちょっと大きすぎることが起こったのでわからなかったけれど。
打ち上げの席ではっきりと「今晩何かが変わったんだな」と感じることはできた。
事実そこから本当に目まぐるしく、いろんなことが変わったなと思う。

これがすごく簡単ではあるけれど、その当時、2010年にあった“転機”というやつのあらすじで。
このnoteのスタート地点なのではないかと思う、ですから改めて、ただ長くいるだけの奴の昔語りなのだろうなと、きっとそう目に映る人達もたくさんいるのだろうなと、改めて自覚するためにも書いておこうと思って書きました。



2. このnoteの趣旨とは↑こういう事では全然ない

そう、こういう事を書きたいのでは全然ない。
だって正直、これ書いてるのめんどくさかったもんね、なんで今さら4年前の事を説明しなきゃなんないんだよ、と。
そういう事が言いたいんじゃないんだよ、って。
でも、たぶんこれも必要なことなんです。

僕が思う事、考える事、その末に吐き出すここから先のテキストは、知っている方には例によって、あまり気持ちのよい内容ではないかもしれない、キツい内容も含んでいると思うし、不条理な言葉の暴力のように映るかもしれない。
もちろん、なるべく誠実に、特に「不条理だ」とは映らないように心掛けます。
だから受け手側にも読む必要なんてない人もたくさんいますし、イベントに関わる者としては見せなくていい「舞台裏」の話を無粋にもしてしまっているという部分もあります。

それでもここに出さざるを得ないテキストは、↑こういうバックグラウンドを経た人の文言だというエクスキューズが、まず読んで頂く前に必要な事なんじゃないかと。
それが「1.」でした。

そんで、ここから先は有料記事となります、100円。
その代わり一度購入して頂ければ、このnoteのシステムが許す限り、あと僕の考えるテーマが尽きない限り、追記の形で更新していきます。

この100円は一種の「ふるい」です。
いっちょ立ち止まって、そんな「舞台裏」に言及したテキストを本当に見たいのか判断して頂くための100円。
なんとなくスクロールしたら目に入ってきた、で読んでもいいことなんかないですから、だったらここでこの記事はおしまいです。



3. 成功「していない」イベントとその反省会がきっとあるはずなのです

前述した時期が俗に言う「黎明期」というやつだとすれば、今はなんなのだろうという事をよく考える。
「最盛期」なのか「過渡期」なのか、それとも「衰退期」なのか。
簡単にイマココ!と判断できないくらい、その数年前と比べて大小いろんな大喜利イベントが毎週末開催されている。

こんなスケジュールサイトもある
http://blog.livedoor.jp/oogiri_schedule/

試しにざっと昨年、2013年の総数を数えたら67あった。
このサイトがフォローしきれていないものも合わせればもう少し多くなるだろう。
この更に前年、2012年はもっと少なかったはずだ、このスケジュールサイトができたのがこの年だからだ。
年々増えていくイベント数に対して生まれた要望を汲み取ってのことだった。

正直なところ、なんというか、これは一過性のブームで、いずれ終わってしまうもので、実はもう終わる時間なんじゃないのか、という怖さがいつも頭の片隅に漂っている。
一つ一つの主催者がどういった気持ちで、どれくらいの気持ちで、どれだけの手間と時間をかけて、熱意を傾けて、イベントを開催しているのか、その全てを把握することは当然できない。
ただこの数に、単純に「盛り上がってるな!」とだけ感じていられない気持ちもある。
言い方が悪くて申し訳ないが、この数に、この「増え方」に、“乱造乱発”という言葉が頭をよぎることが全く無いと、そう言い切れる人はどれくらいいるんだろうか。

例えばこの67の内、「成功した」イベントはいくつあったんだろうか。
「楽しかった」「盛り上がった」「○○さんが凄かった」という感想はよく見かけるんだけど、当然というべきか、マイナスの印象・感想や結果というのはやはりあまり表に出てこない。
見えている額面だけでいくと全部のイベントが成功したことになる。
でもそんなはずないだろう、とも思う。

だってそんなのおかしいじゃない。
素人が年間何十ものイベントを起こして、そのどれもが成功しているというなら、それはそもそも失敗なんて無いということになる。
それは、何をもって「成功」なのかが無いままただやっている、ということになるんじゃないのか。

面白い事ができたと思う時ほど、それをできるだけ多くの人の目に触れさせたいと誰もが思うだろうし、それが叶わなかった事は、やはりそれだけ「成功」から遠ざかったのだとカウントするべきなんだと僕は思う。
あくまで一つの指標だけれど、身銭を切ってイベントを終わらせる事は、やはり悔しくないといけないんじゃないの。
それが何か、献身的であるような、努力の多寡のような、そういう見方はごまかしじゃないの、と。

これは土台の部分。
そしてこの上に乗せるものが、個々のイベントの、67だか何十だかあるそれらの個性であり「そんなにもたくさんある意味」なんじゃないの、と思うのです。
何がやりたいのか、どうなりたいのか、何を見せたいのか、それらができたのか。
それをどこまでこのイベントに乗せるのか、どこまでがこのイベントの「成功条件」なのか。
全部ひっくるめて「何をどこまで取捨選択したのか」が、面白さに反映されて、色を付けて、それがこの界隈の人達がよく言う「自己表現」なんじゃないんですかね。
と、拙いながらも考えていたりします。

「なんだよ、俺のことかよ?!」って思う人がいるなら、そうじゃなくて。
こういう目線を、『何が成功で、失敗なのか』ということを、もし考えた事がないのなら、考えてみてもいいんじゃない?っていう、それだけの提案です。

もちろん、もちろん、見えないところで、夜な夜などこかの片隅で、反省会が行われているんだろうとは思う。
本当に手放しで喜べるイベントなんてそんなに無いんだから、実際。



4. ラインは確かに「動いて」いる、だからその動いた先の事も考えてみる

こんな感じで適宜、つまり、まあ思うままにテーマはシフトしていきます。
ここまで珍しく前向きな姿勢で書けたなと思うので、もうちょい辛辣な部分を出していかないとつまらないですね。

大喜利では「お題に沿う・沿わない」という話が度々出てくる。
僕も過去に何度かその事に付いて考えをまとめたテキストをブログに上げたりしている。

2011/9/3のポスト
http://blog.goo.ne.jp/gandhi_6245/e/98bc87b3a68e51586ff8fcda10dbff08

2014/3/21のポスト
http://blog.goo.ne.jp/gandhi_6245/e/eb48f8bc8715e69ba6d754bc01cae5fa

簡単に言えば「それ、お題関係ないじゃん!」という大喜利の答えをどうジャッジするか、評価するか、という話。
そして『どう評価するべきだと思っているか』についてはそのブログをご覧ください、書いてある内容から、今も特にブレてはいないので。

最初のポストが約3年前であることからもわかるけれど、けっこう早い段階から僕はこれについて「今」ちゃんと話しておかないと、先々になって取り返しがつかない事になるぞ、という危機感があった。
あまりその危機感の部分は共有されなかった感触があったけれど、おそらくこれを「今」言った事は自分のための布石にもなるだろう、というよりなって欲しいなという希望として、半ばあった。

そして現時点で、やはり随分とこのテーマについてはこじれてしまったんじゃないかという気がする。
僕は僕の立ち位置を表明している、他の人達にもそれぞれの考え方がありポジションがあるようだという事は、この手の話を繰り返していく中でわかっているつもりではある。
それらを踏まえた上で、一つ、この手の話題について話す時に念頭に置いて、テーマの始点に置いておくべきなんじゃないかという事を挙げたいな、というのが今回のテーマ。
「沿う・沿わない」の「是か・否か」の話ではありません。

【「沿う・沿わない」のラインは、確実に初期位置から動かされている】

これが、この感覚が抜けたまま話を進める事に違和感があった。
今、同じ界隈にいる誰かを認める認めないよりも、どこから来て「どうなるのか?」ではないのかと思う。
先ほどのイベントに置いての「成功条件」の話にも重なってくるけれど、どうなりたくて、どうなったとして、どう対応していくのか。
「先の事なんて誰にもわからねえよ、オイラたち、今を精一杯生きるのさ」そんな人もいるでしょう、残念ながら僕はあまり共感できないけれど。
「的中」させることが目的ではなく、考えておくこと、準備しておくことに、こういうものは意味があるのではないかなと思う。

大喜利に置いての「初期位置」をどことするか、“笑点”だというならちょっと前時代的だと言う人もいるかもしれない、“ダイナマイト関西”や“IPPONグランプリ”だと言うのは初期位置として現在に寄り過ぎている感じがする。

しかし確実なのは、それらのどれよりも、アマチュア大喜利はお題から離れた無茶に対して寛容に、今のところ進行している。
これに関しては異論はないはずだ。
ネット大喜利に関しても然り、アマチュア大喜利も、おそらくその始まりにいた人達はいわゆる「お笑い好き」だったのだと思うし、その「お笑い好き」の中で触れてきた、「メディアの中で見た大喜利」がその発端にあるはずだろう。

その、言わば原初の枠組みから比べて、明らかに「許される」幅は押し広げられている。
僕自身もつい先日、「お題:バカザキパンのパン祭りではシールを集めると何がもらえる?」→「ソーセージおむすび」という何の関連性もない事を言って、瞬間的にはその場で評価を受けたし、それが受ける段階に辿りつくまでの組み立てがあったとは言え、それは「許された」という事として考えていいと思う。
そしておそらくこれは、アマチュア大喜利の今の最大公約数的な共通認識に照らし合わせると「特にお題を逸脱しているとは考えられない」事になると思う、もっと関連性を度外視した答えが日常的に飛び交っている。
しかし、これをメディアの中に、僕らが最初に触れたルールに持ちこむと、それなりのペナルティや、ツッコミを受ける対象となるだろうと思う、「それお題関係あれへんやないかい!」とかなんとか。
これは間違いなく変化だろう。
(あまりにしょうもないことを順序立てて説明しているので気恥かしい感じになっています)

この変化が「良いか悪いか」「進化なのか退化なのか」繰り返しだけれど、それについては今回は触れない。
その根本から「動いている」ということをまず認識して、そして同様に、おそらくこの先も「動いていく」ことをイメージしていく事が必要なんじゃないかと思っている。

今、「許される」という表現をあえてしたけれども、では逆に「許されない」場合はどんな状況なのだろうか。
前述の項で触れた「きっとどこかで『反省会』は行われているとは思いますけどね」というやつと同じで、関わる全ての人がそうだと言うわけではない。
ただ感じる傾向として、趨勢として、こういったところがないだろうか?という疑問として、「許せない」ラインを持つ事を避けてないですか?と思う。
もっと言えば、大喜利を、お題に答えるという一連のそれを尊大に捉え過ぎて、「それ違うだろ」って言うことが何かその人のパーソナルな部分を傷つける事のようになってないですか?そういう理由で、受動的に「許しすぎて」ないですかね?って。

この「尊大に捉え過ぎて」という部分に関しては別途後述していきたいと思っています。
それとは別に、この項では「動いていく」という部分に置いて。
その幅を押し広げる過程がポジティブな総意によって成されているのあれば、その先には組み立てられたアマチュアならではの新しい地平があるのかもしれない。
無いのかもしれないけれど、そんなの誰にもわからないんだから、それこそ「各々の信じる事をやるしかない」と言うしかないだろう。

ただ「それ違うだろ」が言えなくて、そこからの「まあいいんじゃない?」で動いた、もしくは「よくわかんない」で見過ごした数センチが積み重なって、今後もその境界がスライドしていった先の物を考えていいんじゃないか、というのが僕の思うところ。

今だって僕は密かにそう思っているけれど、きっとこの先も、後から入ってくる人達はいろんな主張をしてくる。
これまで思いもよらなかった新風もあるだろうけれど、同じくらい、もっと多いかもしれない、見当違いの我の押し出しもいっぱいある、それはきっとあると思う。
もちろん、変化はあって然るべきだし、それは基本的に歓迎すべきものだと思っている。
ただ、次々と湧いてくるそれらを「許し過ぎて」形を変えられた枠組みで、その上にあるものを大事にできるのか。

とりあえずこの項はこれでおしまい。



5.そんなつもりはないけど、偶然の作用によって、いい温度で、たまたま求められる形になっているだけの『表現』

実は大昔に、それこそ十九や二十歳の時に素人の物書きコミュニティで、知り合いどうしで小説を書いて見せあったりしてた事があった。
中でもよく付き合いのあった人達はみんな面白い人達で、面白い小説を書く人達だったけれど、やはりそのまま小説家になったというような人はいない、人生そんなに甘くはないという通説はなかなか本当で、今は他の事をして稼いで暮らしているようだ。

そんな若気の至り的ノスタルジーがこの項の本題ではなくて。
その当時から自分の書いた拙い小説もどきがweb上のコミュニティサイトに「○○さんの作品」というキャプション付きで載る事に若干のモヤモヤがあった。
それなりに真剣だったつもりはあったし、そうなのだ、俺が馬鹿であろうと、出来が劣悪であろうと、「作品だ」とただ言うくらいはいいはずで、生み出す内でそれくらいの消耗はしているはずだ。
という思いでそのキャプションに納得していたものの、やはり煮え切らないような、居心地が悪いような気がしていた。

「作品」というのは、「表現」という名の「創作活動」が行われた先にある「芸術・アート」に冠せられるウヤウヤシイやつなんじゃないの?ということで。
確かに頑張ってるけど、「表現」なんてことができてるのか?自分に。
と思っていた。

『表現というのは恥ずかしいものだ』ということを、どこぞの作家先生が言っていた。
普通に生活していて、誰かと接する、話す、そういう時に被せているキャラクターを、人格的コスチュームを外したマッパの状態を表に出す行為だから、それは基本的に恥ずかしいと感じるものなんだ、とそんな感じの内容だった。
「表現」というものの規定は個々人いろいろあると思う、ただ僕はそれが妥当だと思ったし、安易に自分のやってることが「表現」であり、自分の書いてるものが「作品」だと言えなくなった。
「創作」であり「芸術」であり「作品」であるものは、低いハードルであってはならないから。
それは、本当に高いハードルを越えて世に出された「作品」とその「作者」に失礼だから。

それで、まあ、わかると思いますけど。
僕はそれとおんなじ事を、大喜利に思ったりしている。

お笑いは、大喜利は、人を笑顔にする、幸福な気持ちにさせる、素晴らしい文化だよ。
という文脈の語りをちょいちょい目にする。
確かに「そういう一面もある」とは思う。

「そういう一面もある」というのは、「結果的にそうなっている場合もある」ということだ。

「褒められたい」「バカバカしい」「ウケたら気持ちいい」「笑いを取ってる人が羨ましい」「あの輪に入りたい」
と思って始めたことが、たまたま他人を楽しく、前向きな気持ちにさせていることがある。
それだけなんじゃないの?
少なくとも“はなさかじいさん”みたいなスピリットで大喜利してる人いないでしょ?

その動機を「人を笑わせたい」と言えば聞こえはいいが、「他人を沸かせられる自分を確認したい」という、一言で言えば功名心。
それこそ言葉遊びで、なんとでも言える、義賊とは結局泥棒で、それが善行であるというのは一方的な、熱を持っている方の視点でしかない。

自分が楽しい、みんなでやるのが楽しい、それももちろんある。
でもそれも同じで「ただ自分達が楽しいだけ」のものだ。
価値なんて無いし、価値を生んでもいない、世の中に何か還元しているわけでもない。
大喜利なんか素晴らしくもなんともない。
そんなつもりはないけど、偶然の作用によって、いい温度で、たまたま求められる形になっているだけだ。

だから、ありもしない荷物を載せてくれるなよ、と思う。
つまんないものに「つまんねーだろそれ」と言っていいし、おかしいと思ったら「それおかしいぞ」と言っていい、クソだなと感じたら「マジでクソだな」って言っていいじゃない。
尊重するもの、するに値するものなんてそもそも無いんだから。

少なくとも大喜利の答えの一つは「表現」でも「作品」なんかでも絶対にないし、そこにほんの一なすりでもミソを付けることが憚られるような、そんな尊重は勘違いだ。
暗に「だから僕のにも触らないでください」「僕のやることも最大限尊重してください」と言っているにすぎない。
あえて広く『お笑い』という括り方をするが。
評価があってこそ成り立つ『お笑い』の中で、「褒められたい」「でも否定はされたくない」

「つまらない、間違っている、ウンコ以下と思われても、これは表現だから、個性の露出だから、それを安易に否定されたくない、僕の人間性を否定されてるような気持ちになるから嫌だ」

と言っているにすぎない。
って感じるのは僕だけですかね。
気軽に笑ってくださいね、の反面、気軽に否定しないでください、というのはちょっと自分勝手だよな、って。

つまんない、おかしい、クソだと言われたそれに、自分は正しさや誇りを持っているかもしれないし、それは持てばいい。
しかしそれと対外的価値は別だという、当然の感覚をちょっと取り戻そうよ、ということを言いたい。
価値の無いものを僕らは大事にしていて、それはそれで素晴らしいじゃない、と思ったりもするんだけど。



6.それはやはり『現象』なんじゃないのか

前回まででとりあえずモヤモヤしていた事をあらかた吐き出せた感があったので、しばらくゲームとか本読んだりなんかして特に何か書こうって欲が沸かなかった。
これがタダでやってるブログなら、このまま、また1年2年放置の流れなんだけど、幸か不幸か100円頂いてしまったのでアウトプットをしていこうかなと思う。

最近読んでいた寺田寅彦という人の随筆にこんな一節が出てきた。

笑いの現象を生理的に見ると、ある神経の刺激によって腹部のある筋肉が痙攣的に収縮して肺の中の空気が週期的に断続して呼び出されるという事である。息を呼出する作用にそれを食い止めようとする作用が交錯して起こるようである。ところがある心理学者の説を敷衍して考えるとそういう作用が起こるので始めて「笑い」が成立する。笑うからおかしいのでおかしいから笑うのではないという事になる。『笑い』 より

夏目漱石の高弟、随筆家であり、物理学者でもあった人物だそうで、この後、落語の世界でもよく言われる「緊張と緩和」へのアプローチなんかにも続いていく。

「笑い」を芸や道として突き詰めていく中で生まれた解釈と、現象論的心理学的に捉えた先に導き出されたものが、同じ「緊張と緩和」だったというのが個人的にはとても面白かった。

それと同時に、やはり人が笑うことは「現象」であり、人を笑わせることというのはその「現象の再現を計る」ということであり、面白さというのはその「再現性の高さ」なんだと捉えた方が個人的にはしっくりくるなと感じた。

【面白さ】というパラメーターがあってその数値の大小で決まるのではなくて、あくまで「現象」を主導として付随してくる分類用のラベルみたいなものなんじゃないか、という。

おそらくここいら辺の意識如何で、前述の項でも触れてきたような「アート・文芸作品の表現媒体としての大喜利」にシフトしていくのかもしれない。
全てを見てきたわけではもちろんないので断定はできないけれど、どのサイト・集団も歩みの速さに違いはあれど似たような「作品化」の筋道をたどっているように感じる。

もうずっと以前から「まるでRPGのようだな」と思ったりしていた。
大喜利をし続ければ、その分だけ経験値が貯まって、レベルが上がって、「面白さ」の値が大きくなるのが当然のように言われているよな、と。
自分が言った事で自分じゃない人を笑わせる、という、かなりシンプルに「他人と対峙する」構造のゲームなのに、「他人と対峙する」時に100%付いてまわってくる『理不尽さ』という大問題。
『がんばっているのに上手くいかなさ』という現実の一番苦い汁のところが看過されてるよなって思っていた。

よく言う「実績」とか「結果を出す」とかそういう事ではなく、もっと単純に「面白い」という事について。
理不尽に決して犯されない「面白さ」という指標があって、そこに沿わせる事が「面白い」であり認知であり承認なんだという。
これをやっていれば、そりゃ作品化していくだろう。
他人から、目の前の笑い声から切り離しても成立するんだから。
だから自分達の思う「高尚」「進化」「上位ステージ」に向かって何歩進んだか、で判じてしまえる。
ここら辺が、アマチュア大喜利がたまに「宗教臭い」と言われちゃう部分でもあるのかなと思う、そうだもんな、まるっきり。

ただ考えてみれば「面白いから笑うんだ」というのは至極普通の感覚で、それは全部間違いです、勘違いです、あなたたちはバカです、今すぐその感覚を捨ててください、というのはとても乱暴で、そしてそういう乱暴な言い分がちゃんと正しい、とも思えない。
そんな主張、ほんとにしたっていいものか?と二の足を踏んでしまう。
ここが難しいところだなと思う。

で、結局ここに立ち返る。

万人にとって面白いものなんかない
面白いかどうかなんて主観

なんてつまらないんだろうと思う。
アマチュア大喜利が内輪のお遊びだと言われる事よりも宗教臭いと言われる事よりも、こうやって何千字何万字も書いている事がそこらのアホの斜め読みで適当な悪意に変換されて吹聴される事よりも、結局こんなつまんない地点に着地して、挙げ句の果てに「各々が面白いと信じる事をやるしかありません」というクッソつまんない結論で締めるしかなくなるドツボの方がずっとずっと悔しい。
その各々が各々を信じまくった結果、評価してくれる人よりも自分の信念の方が偉くなっちゃったんだろう。
そんなの女子大生の自分探しと変わらない。

だから逆に、もうこんなふうに現象論的に言うしかない、「面白い」なんかない。
そんなものは存在しない、少なくとも人間風情には確かなものとして観測することはできない。
だからそれが必要な僕らは「それらしいもの」の存在を探して推し量りながら、常に「とりあえず」としていくしかない、そういう信念などの置き所とはとてもできないほど不確かなものとして扱っていくしかない。
その不確かさの微かな指標となるのが「笑い」で、芸術的概念としての「笑い」ではなくて、確かに存在して聞こえる声としての「笑い」で、そうやって打診の反響音で推しはかっていくようにシルエットをイメージするしかないのかなと思う。
でないと、いずれその「信念」というやつが「面白い」を規定するようになるし、それが作品化、文芸化、アート化していく、まあぶっちゃけ気持ち悪い状態なんじゃないの?というところで〆。

ちなみにこの寺田寅彦の随筆は「笑い」も含めていくつか青空文庫なんかで無料で読めるので、お暇な方はぜひ。



7.答えている体でボケてください

お久しぶりです。
書くこと、言いたいことが無くなったわけではないんだけれど、「どれを今書くべきか」「これを本当に言ってしまっていいのか」などと考えていたら、どうも半年くらい経っていた。
この半年の間にも大喜利界隈には何かと動きがあり、僕自身も大喜利会議室で1つやりたかったことを形にすることができたし、それなりに得るもの、残せたものがあったかと思う。

特にこの半年を、これ以上掘り下げて振り返るつもりもないので、まずはこんな話から再開してみようかな、というところ。

能登たわしさんのpost大喜利の一歩目は「お題を無視する」 https://note.mu/nottawashi/n/nd96234af0c40

過去に「お題を無視する」ことに関して僕なりに頭をひねって言葉をひねって、こういうことなのではないかという持論を展開させたりしてきたのは
【4. ラインは確かに「動いて」いる、だからその動いた先の事も考えてみる】
の項でも書いた通り。
その点からしても、なるほど、『大喜利のやり方を知らない』人にとってはとても端的で、即時的に有効なアドバイスかもしれない。
と同時に、僕が「お題を無視する」と言われている行為をなぜすんなりと飲み込めないのか、という疑問への、別のアプローチがこの文章にはある気がした。
(もちろん、その一歩目を踏み出そうとしている人達にはそれほど重要ではないこととして)

大喜利として答えている時点で、なるほど確かに、いくつかの前提を「もう既に無視している」のだと捉えてみる。
その上で、僕が受け入れられない「無視」と、そうでない「無視」の違いはなんなのか?そこに結論があるのではないか、ということ。

それはおそらく「『無視していること』をバレないようにしている」か否かなのではないかなと思う。
その能登さんのpostに僕は「『こんな先生は嫌だ』というお題には、言外に書かれているものがあるということだと思います。」とコメントを付けたが、つまりこういう文脈がそこにはあるのではないか。

「『こんな先生は嫌だ』という問いに対して答えている体でボケてください」

これは「大喜利」というもの自体へのアプローチでもある。
この『バレないように装う』バランス感覚が無いものが、きっと僕は無粋で好きになれないのだろう。
大喜利をしている人を「オオギリスト」と言ってしまうことも、お題に答えることを「ボケる」と言ってしまうことも、全部無粋だから好きじゃない。
僕はただ「聞かれたことに答えているだけ」なんだ、それが「たまたま面白くなった」だけなんだ。
大喜利のお題や答えが決して多くを語らない、そこに行間や“含み”を残すのは、そんな素知らぬ顔をするためなのだと思う。
だって同じことを言っても、「え?」って顔をしてる方が絶対に面白いから。

先のpostの文中には「大喜利は『お題に対して面白いことをいう』という遊び」という説明が出てくる。
でも正直に言わせてもらうと、そんなこと言わせないでくれと。
舞台下手に「大喜利」というめくりが立っていて、その脇で僕らは「聞かれたことに答えている」だけなんだよ。
その体を崩されるとすごく恥ずかしいのです。

そんなこと言ったって、わからない人には説明しなきゃわからないし、わからなければできないじゃないか、と思うかもしれない。
でも僕は「それがわからない人はやらなくたっていいよ!」と思ってしまうんです。
だってそんなに求められてないんだから、足りないわけじゃないんだよ、数も質も、むしろ飽和してる、芸人の世界でも「面白いのに売れない」と言われている人達がたくさんいる。
どうなっていくのが正解なのかわからないし、他のマイナーカルチャーがどうなのか知らないけど、少なくとも僕が属したいと思っているアマチュア大喜利界隈には、そんなに膨大なプレイヤーは必要ない。

だからきっとここいらで棲み分けが始まるべきで、というかもう水面下で無意識下で始まっているはずなんです。
とまあ、誤解たっぷりに残す感じで〆。



多少内容に触れてしまってもいいので、コメント等あればお願いします。



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