A rolling stone gathers so much moss.

【自分史】

何を隠そう、34歳まで色々なことに手をだしていた。
仕事や事業のことである。
大学受験に失敗した。
父のリストラ、母のアル中、祖母の帰郷。
実家がぐちゃくちゃになった。
三浪になるのか働くのかと追い詰められ、「働く」選択をした。
20歳の選択。甘かった。
そこから14年間。副業も含めると10種類以上の仕事をした。

20歳のころ日本はバブル。それにも関わらず就職市場は高卒には厳しかった。お金が良い仕事は3択。

お水系、フルコミッション、肉体労働。

高校の時から喘息で体育も頻繁に休んでいた僕が肉体労働というチョイスはない。

「モテるかも?」と頭によぎりお水系に走った。
先輩の父親がオーナーのサパークラブっぽいR&Bクラブだ。
当時飛ぶ鳥を落とすいきおいでディスコやカラオケなどを展開していたグループの一店舗だった。そこで働いていたボーイは長髪だったり元暴走族だったり、昼間アパレルの勉強をしている岩手出身の子だったり、僕が公庫までに会ったことがない人種だった。

「レードル持ってこいよ」
レードルって何?レードルって酒? LかRで書いてある酒かなんかかな。
酒を混ぜる棒がレードルというなんて知らなかった。

「なんで立ったままで酒を作ってんだよ。」
「トレイは片手でもてるように練習しろよ」
「なんで氷が溶けてるのがわかんないの」

毎日、怒られ続けた。叩かれたり、蹴られたりしたのでやめることになった。お水系も肉体労働の一部だと知った。高校の時に馬鹿にしていたような連中にアゴで使われる。嫌になって辞めた。

お金のいい仕事がないかと探していると、夜と朝の実験の記録と見回りだけで1番1万円以上をもらえる研究所のバイトにありついた。拘束時間は12時間だがそのうち6時間は寝ててもOK。実質働くのは見割と実験の記録だけ。実質労働時間2時間。楽だと思って始めた。
見回りのあとガイガーカウンターで放射線を測定し一定値を超えたら来てた白衣を捨てた。そんなことは気にしてなかった。
データをノートに記録して夜は寝るだけなのにこんなお金をもらえるのは健全じゃないと思いなおして、やめた。

肉体系もダメ、水商売もダメ。ラクだけど働いた感じがしないのもダメ。

そう、最終的に行きついたのがフルコミッションの営業職だ。
英語の教材レーザーディスクや英語学校の勧誘販売だった。

売れない日々が続いた。

電話をかけてもガチャ切りされる。

実際に会えても断らる。

成績が出せないと、気持ちが落ち込む。全然売れない。

プレッシャーから寝れなくなった。会社に12時まで残るような日もでてきた。顧客を執拗に説得するため喫茶店が閉店するまで粘ったりもした。
アポで行った千葉の柏で遅くなりすぎて終電を逃した。
つらい日々が増えていった。

ゆいつの楽しみは英会話スクールの施設を見たいお客さんを連れて実際に案内した時だった。そこで働いている外国人と一言二言話すことが唯一の自分を証明できる瞬間だった。

「池田さんは英語が話せてよいですね」
「池田さんみたいになれるかな」

一言でも二言でもアメリカ人と会話する僕にお客さんは褒めてくれた。

体を壊し始めた。転職を考え始めた。その状況から逃げたかった。(ここまで3職目)

英語を使えたら。でも学歴不問な仕事はない。
たまたま英語学校の入口のラックに入っていたJapan Timesの広告が目に入った。

「学歴不問。英検3級以上。イギリス系企業」
それは金融仲介業の雑用係の仕事だった。

仕事中の営業ででるタイミングを作って、その時間帯に面接を受けた。

銀行から天下りのH社長の言葉は冷ややかだった。
「今から遅くないよ。大学いったら。」

このH社長からは採用を渋られた。

イギリス人のMr.Turpinが僕を気に入ってくれた。
彼がその場で僕の採用を決めてくれた。
これが僕の金融機関に勤務することになった始まりだ。

入社後、雑用からトレーニ。そしてブローカー。ラインズマンとメインブローカーとキャリアアップしていった。通勤途中にNHKラジオのテープをすりきるまで聞いた。稼ぐことに集中した。24時間、仕事のことを考えて社畜のように頑張った。

「お前、残業稼ぎで無駄に働いてんじゃないの」と言われたので。

17時半にタイムカードを押して、そこから他部門の仕事を手伝うようになった。

それを見てくれた人の推薦で海外に行くことになった。

そこでも体を壊すギリギリまで頑張って結果をだして転職した。

このインターバンクの仲介業7年目3社目には役職もついて海外に住み部下が16人いるまでになっていた。

そこからまた証券会社、銀行に転職しクビになる。

クビになった時のパッケージと貯金で友人の会社にジョインし海外での事業の立ち上げや営業、資金調達、新製品開発など色々やった。

そしてその友人と喧嘩別れで立ち上げたITベンチャーがこけた。そもそもコードも書けないのにアイディアだけで起業できるという甘さから失敗した。

もう、ぐちゃぐちゃだった。34歳で会社をたたむことになった。
色々やった。営業職だけで上り切り、売れないサービスと商品を考え破綻した。

残ったものは莫大の借金と裏切られた仲間への恨みとそして悔しさと砕け散った自信。

収入を絶たれたしまった。お金の入ってくるあてがない。
34歳で行き詰った。

ここからが僕のVer2.0向けての再スタートになったのだ。
















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