十四、

あの大学の図書館、そしてその電話番号を探した。電話をかけた。知りたい内容を伝えると電話の主がお待ちくださいませ、と言った。待っている間に私はいろいろなことを考えた。突然、ガタンと洗濯機の止まる音がし、私は酷くびくついた。息子は静かにベビーベッドの中で眠っていた。程なく、電話の向こうから声がした。
「申し訳ございませんが、個人情報のため、お答えすることができません」と言った。私は記憶の網を手繰り寄せながら、
「ミズ・スミスはいらっしゃいますか」と訊いた。電話の主は、「ファーストネームか、ミドルネームは?」と訊き返し、私は、「エマです」と言った。電話の主は「エマ・ベス・ スミス」ならおります、と言い、電話の向こうから「エマ、ミスター・ワタナベから電話がかかってるわ」と聞こえた。
電話に出たエマは開口一番で、「あなた、ずいぶん前に来てた日本人?」と驚いた様子で訊き、私は、「他にあの図書館に三ヶ月以上も通った日本人がいたのですか?」と言うと、エマの笑い声が聞こえた。しかしその笑い声は徐々に小さくなっていき、なぜか彼女の深い悲しみが込められているような沈黙が続いて、私は急に背中に寒気を感じた。私はエマが口を開く前に訊いていた。

「婦人に、何かあったのですか?」
エマは「すごく言いにくいことのだけど」と慎重に前置きしてから、婦人が去年、癌で亡くなったと言った。

私はしばらく、動けなかった。「大丈夫?」というエマの声でようやく意識が戻ったが、体は動かないままだった。反して、思考はだんだんと明確になっていった。

私は、すべてのことが腑に落ちた気がした。私が日本から婦人に手紙を送り続けていたころ、夫人は、私が手紙送ってくれることが本当に嬉しいと何度も、何度も強調して言ったのだが、「今度そちらに行きますよ」、と私がいえば、「あなたは今、日本で仕事をしているのだし、休みを取るのは難しいでしょう?」とか「新しいガールフレンドはできたかしら?」とか、「そろそろ結婚しないと時期を逃してしまうわよ」とか、いつも話をはぐらかしたのです。私が、「いえ、日本にはお盆休みというものがあって、この時期だけは休みが取れるのでそちらに行くことができそうですから」そういうことを言うと婦人は、「今年の夏は、故郷のある、アイルランドに戻らなければならないの」とか、私が正月休みを使って行こうとすれば、婦人は、「甥っ子の結婚式のために、ギリシャに行かなくてはならないから」などと言って私を、「次の機会に」となだめるのであった。夫人はその頃から、エマが言うには、乳がんとの闘病生活を送っていたらしい。もしかして......

「私がそちらにいた時からでしょうか?」

と私が訊くと、エマは、「それはないと思うけど」と言って少し考えるように間を置いてから「でも、ちょうどあなたが日本に戻ったころ、少しおかしいと思ったことがあるの。まず、婦人が、急にお化粧を始めた。あと、洋服の買い物が増えたわ」エマは続けて「婦人が日本語の勉強をし始めたから、私はあなたの影響があってのことかと、婦人に訊いたの」

「そうしたら?」

そうしたら、婦人は「死ぬ前に日本で富士山を見なきゃね」と冗談のような口調で言った、らしい。そこで私は、ありがとうとエマに告げて電話を切った。 

私はソファーに腰を下ろした。背骨が曲がったまま、私はそのままソファーの中に本当に沈んでいくような感覚があった。このままどこまでででも落ちていく、そんな感覚があった。意識が遠のくとはこういう事なんだと無意識の間に理解できた。

どのくらいそうしていただろう。私は息子の泣き声で目が覚めた。慌てて抱え上げあやした。条件反射的にミルクをつくり与えた。息子は漸く泣きやみ、私はそこで初めて時計を見た。時間は午後の七時。いつ妻が帰ってきてもおかしくない時間だった。

すぐに妻が帰って来て、何よりも先に息子に乳を与え始めた。息子は妻の豊満な乳房にかぶりついた。私はそれを見て、なぜだか無性に悲しくなった。

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