一、

振り返ってみれば、今年ほど最悪な年はあっただろうか、と毎年思う。

それはただ単に、私が非常に陰湿な人間であるからなのか、それとも現実に、年を取るにつれて気分が乗らない、もしくは昔は楽しかったと思えたようなことが起こったとしてもそれを単純に受け入れることができなくなったのか、それとも、私が単純にうつ病なのか、その理由は、私が心療内科に行くまでは、はっきりとしないのだろうが、いや、どうしても、そういうところへ行く気がしない。

怪しい。「カウンセリング」をするのであろう「カウンセラー」という者に、

ーーあなたはうつ病ではありません、とか、

ーーあなたはうつ病です、とか言われて、

素直に納得する自分がいるとは思えない。ゆえに、私は、いや、しかし、私が、うつ病だと思えない。例えば、その理由を5つほどあげてみよう。

まず第一に、日によっては楽しいと思うことがある。

例えば、生まれたばかりのわが子が非常に愛らしく見えてきて、遊んでいる彼を見ていると、そこには虹がさしているように見える。虹が見えるのだ。

いや、これは、明らかに、私の精神に異常があるということを示唆している。それとも、私が飲み過ぎて、今まさしく私の目の前にあるテーブルの上に一本開けられた赤ワイン。その影響によってか、息子だけではなく、部屋の中の物全てが虹色に見える、といえないわけでもない。

そういうことで、第一の理由は破棄させていただこう。

それでは第二の理由として、私がうつではない、という単純な理由を述べたい。第二の理由として、日によっては大丈夫、ということがある。第一の理由と似ていないか、という声が聞こえてきそうだが、現時点で、私は第一の理由を忘れてしまっているからいいであろう。大体、そういう細かな指摘は好きではない。

さて、話を続けさせていただいてもよろしいでしょうか?

私は、正直に言えば、小学校ぐらいーーまぁ、物心ついた頃からーー高所恐怖症でありながらも、何故かその高所から落下したいという願望があった。願望というと、少し、本来私が意味したいところからずれてしまうが、高所恐怖症でありながら、足を震わせビルの屋上などで地上を眺めていると、そこに向かわなければいけない、あすこに落下しなければならないという気がするのだ。それは、論理的に考えられるものではない。

私は、物事をついつい想像しすぎてしまうようなところがあったから、例えば、尖ったものを見れば、それが私の指に指先に刺さり、痛みをもたらす。そして血が流れる、そう思うだけで、例えばシャープペンシル、鉛筆、ナイフ、人参、のような先の尖ったものを避けてしまうということがあった。

スーパーマーケットでの買い物に影響を与えるほど、私の想像力というのはーー陳腐な言い方をすればーー豊かと言えるのかもしれないが、だからこそ、私が建物の屋上から地上を眺めてその痛みを想像できていないということはありえない。しかし、それをも乗り越えるほどの使命感というものを私は自分の落下の可能性の中に感じるのである。これは、例えば、理由どうこうではなく、やり遂げなければならないひとつの重要な仕事、とでもいうような強迫観念に似たものを感じるのだ。

であるからに、私が屋上から飛び降りたいと思う日が毎日あれば、それはさすがに私も自分も重度のうつ病であると思うべきだろう。がしかし、それは言ってみても、一週間に三日ほどのもので、一週間のうち残り四日はそのようなことを考えない。というよりも、忙し過ぎてそんな暇が無い。そして、忙し過ぎる自分が嫌になり、残り三日、「落ちたい」と思っているのかもしれない。

と今これを書きながらまさに気がついて、私は自分がやはり鬱だと思った。

そういうわけで、五つの理由を述べると言ったが、第二の理由まで考慮したところで私はおそらく鬱病であると言う事実に、今気が付き、驚愕したところである。

そういうわけで、インターネットにつなぎ心療内科を探したら案の定、見つからない。私は今、海外に住んでいる。海外といっても英語さえもろくに通じない国であるので、この国の言葉がまだ不自由である私に、心療内科を探す術はない。とは言っても、この国の人間である妻に聞くわけもいかない。

というのも、自分が気がおかしくなっているかもしれないということを自分の一番身近な存在である妻に聞かれたい者など、果たしてこの世に存在するだろうか、という思いがある。いろいろ、例えば、どのようなタイミングでこれを妻に伝えればいいのか正直私には分からない。

例えば、普段言いにくいことを、私が妻に言うときは、私は決まって「外へ出ようよ」、と妻を誘い、例えば近くの緑豊かな公園などに行き、遊ぶ他人の子供たちなどを眺めながら、極めて平和な環境の中で、言いにくい事をいうのである。

例えば、

ーー家事を少し手伝ってくれないか、

とか、

ーー君のいびきが少しうるさいのだが、

とか、

寝ている時に短パンからはみ出た足が、私の足に重なるのはまだいいのだが、伸びたあなたのすね毛が痛いから今すぐ剃ってくれないか、

とか、しかし改めて考えてみれば、こういう思考を巡らせている自分がいやになる。

いますぐこの部屋の窓を開けて飛び降りてしまいたい、と言う衝動を覚え、それほど自分が嫌になり、もう、発狂してしまいそうになりながらも、かろうじて、息子を眺めると、彼の笑顔に助けられた。

子供というのは実にいいものである。

子供がいれば、少なくとも、自分のことを考える時間が減って、楽になる。しかし、さっきまでのような、子供が生まれて、子を持つ親になってまでも、自分がまだ、極めて自己中心的な考えをもっているという事実が嫌になり、いますぐ台所に行って出刃包丁を取り出し己の心臓をくり抜いてしまいたくもなるのだが、その状況を見た息子の将来長きに渡ってまで抱えることになるトラウマを危惧すれば、そのような死に方ができるわけもない。

自分がとことんいやになった。

なぜ私は今、自分の死に方について考えているのだろうか。今すぐこれを電話カウンセリングか何かで、日本のカウンセラーに伝えるべきではないか。この国がダメなのであれば、国際電話を使って、いますぐ日本に電話するべきだろうが。

と、時計を眺めると今は日本では午前一時。開いている心療内科のなどあるわけがなく、少なくとも、私は明日までは生きなければならなくなった。



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