十一、

父と母が最終的に、私が中学二年の時に離婚するまでの間、愛し合っていたかということは、離婚という結果から考えればもはやどうでもいいことのように思えた。母は最後にこう言って家族会議を閉めた。「お母さんね、もう疲れちゃったの」父は何も言わなかったが、祖父の葬儀の際にこう言った。「お父さんは離婚したくなかった」私にはそのどちらもずるく、自己中心的で、自己正当化的なセリフに思えてならなかった。弟と妹はおそらく私と同じような印象を得ていたとは思うが、「こういう離婚なんて今はどこにでもあることなんだからさ」と弟は言い、妹は、「私も別にどっちでもいいし」とだけ言い、翌月から父が家を出ても、何も変わらない生活が続けられた。

私にとっておそらく夫婦というものは人生における役割分担をどうやっていくか、共同作業どのようにしていくか、そういった実務的なやりとりをする相手、そして日々の行き場のないフラストレーションが最後に行き着く場所、そういう存在としてしか見えない時が多々あった。ときには、他人には到底言わないようなひどい罵り言葉や、自分自身も自分自身の口から出たとは思えない呪詛の数々が当たり前のように飛び交う食卓では、何を食べても美味しいはずは無く、私の体重は減っていき、中学一年の頃はクラスでも一番痩せた男の子であり、いじめの対象にさえもならなかったが、中学二年の両親の離婚を境に私の体重はすっかり増えてしまったのだから、そういう子供への影響を考えても、夫婦喧嘩をしながら夫婦関係を無理して続けていくというのはやはり健全では無いのかもしれないと、今だからこそ思えるのだが、当時は、そのことが辛くて辛くて、もしかすると自分だけがこのような苦しみを味わっているのではないかと、運命を呪ったりもしたが、隣で何にも変わらなく日々をのらりくらりと過ごしている弟はきちんと勉強をしていたし、妹も塾通いを始めたりして、高校受験に失敗したのは私だけで、その事実はさらに私を追い詰めた。私が本当に死のうかと思っていた矢先、祖父が他界して、祖父の死によって私は冗談でも死ぬなどと考えてはいけないと思うようになり、それは究極を言えば私を救ったのだが、反面私をさらに追い詰めた。しかし翌年に、祖母が亡くなってから二人の大いなる理解者を失ったことで残された私は、いったいこれから誰を頼りに生きていけばいいのか分からなかった。

こうして、私の実家の座敷には曾祖父曾祖父母の写真に混じって祖父祖母の写真が並ぶこととなり、現実世界より賑やかに見えた。私の曾祖父の死後、曾祖母は一人、私が生まれて六歳になるまで生きた。曾祖父の話はよく聞いていた。曽祖父は戦争で死んでいた。実際、遺影写真の下には、昭和18年、ガダルカナル島にて戦死、という書き込みがあった。それを誰が書いたのかは知らないが、おそらく当時の軍、もしくは曽祖母の手書き? 私はそれを半分作り話のように子供ながらに思っていた。曽祖母も、あの国の婦人と同じように、「ひいおじいちゃんはアメリカ兵に殺されたのよ」などと言うことはなかった。どちらかといえば「あの人は日本の軍部に殺されたのさ」、と終戦記念日が近づくと毎年のようにぼやいた。反面私の母は、なぜだか皇室アルバムという皇室についての情報でのみで作られたテレビシリーズの熱心な視聴者であった。私は一度、母に意地悪を言ったことがある。「お母さん、ひいおじいちゃんは戦争で死んだんやろ?」母は「そうよ」と言った。「それで、おばあちゃんはアメリカよりは日本のことを憎んだんやろ?」と言うと、母は皇室アルバムを見ながら畳んでいた洗濯物を寝室に持って行って私は無視された。私は大声で寝室にいるだろう母に聞こえるよう続けた。「やったらお母さんは何で天皇好きなん?」母は走って戻ってきた。「あんた何バカなこと言ってんの、怒るわよ」と、冗談ではない剣幕で私をしかった。そのくせ母は、「おじいちゃんが自衛隊員だという理由で中学校の頃に転校先の学校で随分といじめられたわ」なんてことをよく言った。「ひどいのは、担任の先生が中心となってお母さんをいじめてくる事だったわ」なんてことも言った。幼い私には、なぜ自衛隊員の父親を持っているということがいじめられる理由になるのかということが理解できなかったし、夫を戦争でなくして、敵よりも、指導者の方を憎んでいるという曽祖母の気持ちもよくわからなかった。子供だった私は、話が私の理解の範疇を超えてくると、祖母のところへ逃げる習慣があった。祖母は生活を大事にする人でーーというよりはそれしかなくーー料理を作り、掃除をし、洗濯物を干し、畑を耕し、お米を作って、近所を散歩する、そうそういうこと以外には、テレビでバラエティー番組を見ながら手を叩いて笑うという、実は、今の私の性格に、一番似ているかもしれない人だった。

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